「周辺シ 3」クヮン・アイ・ユウ
犬
朝から気が滅入る場面に遭遇した。出勤する為に自宅の鍵を閉めて階段を下ろうと廊下を歩いていた時、ふと地上を見下ろすと犬が居た。その犬は、私と二回りくらいは歳が離れていると思われる目上の女性と散歩をしていた。胴体の腹側を支点にすれば掌一つで持ち上がりそうな小さな犬である。
女性はスマートフォンに意識を向けながら歩いていて、その時犬が突然何かを口に含んでしまった。何らかを食べてしまったことだけがその女性には捉えられたようで、その事実に怒りを露わにして人目もはばからず怒鳴りつけていた。そのままリードを強く引っ張るものだから、小柄な犬の体は簡単に浮き上がった。それでもまだ何度も何度も引っ張るので、私は犬の首や神経が痛まないだろうかと気が気でなかった。やがてリードの緊張が和らいだ後にもその女性の怒りは収まらず、言葉を吐き出し続けていた。その後も見つめているとようやく持ち直したのか再び前へ向かって歩み出し、女性はまたスマートフォンの入力を再開した。
それら一連の様子を見送り会社へと向かう私の心には、冬の朝の鋭くも澄み切った空気とは別の、鈍く重いものが感じられていた。
恐れ、そして書くこと
前述の場面に遭遇した時に感じた自らの気持ちとその背景について考えていた。
ダメだ。これ以上進むことが苦しい。息が切れる。マラソンというよりは登山の体感に近い。未体験だが、きっと穴を掘る時に感じるそれにも近そうだ。
俺はどうして書こうとするのだろう。それで何になるというのだろう。多分わかっているのだ。生きていく為にそれが必要であることが。それも理屈ではなく感覚的に。これが結果的に書けるかどうかではなく、書こうと挑んだかどうかが問われているのだと考えている。例えば席を譲るべきかと考えて脈が速くなっている時も、声をかけると決めてからタオルを拾って駆け出した瞬間も、それらが空振りであったこと等は関係がなかった。いつもその時にただ問われていたように思う。目に見えない、数えられない、感覚や最早思い込みや妄想とさえ言えるかも知れない不確かで確かなもの。実を結ぶのが死ぬ時なら異例の幸運、死んでからならそれでも幸運、多くの場合はただ世界の養分になる。そしてそれも幸運。
詩、散文、日記、リリック、文章。その他書くことなら何でも。いつも思うのは、書く行為に約束はないということ。そしてただ信頼だけがあるということ。信頼とは、結果がどうなっても後から何も言わず、未来へ向けて己を丸ごと預けることだと考えている。約束は破ったら咎められることがあり、破られると相手を咎めることがある。でも信頼にはそれがないと考えている。世界を信頼すること、私はそのことについて約束している。
本丸
さぁ行こう。嫌だなぁ。
俺は早くに子どもを卒業したように思う。それは経済的な意味で親にはなれなくても、精神的に親のような立場になることもその一つだと考えている。親子が逆転すると、未熟な俺は俺の行き場置き場のなさに困惑した。それでもそういう複雑さを一時的に横に置いておいて、相手の表情や振る舞いを読み解くことに全神経を注ぐ必要があった。そしてその一時的は一時では済まなかった。そのことが二十数年後の俺をグレさせることと無関係ではなかったように思う。平均より約十年遅れた反抗は、身体も心も器が大きくなった分だけ若い時代のそれと赦されるものとは違っていた。けれどだからと言って、露悪的に振る舞うことや人を傷つけることは、たとえどんな理由があったとしても赦されることではないと考えている。コントロールされたからとコントロールしたり、言葉の力を試したり、愚かだった。
幾つもの愚行を繰り返し、時間をかけて理解し、今、ようやくここに居る。心身の成熟。身体の方は体力や髪、視力等々、今や一つずつ返していく過程に入っていると実感している。心はどうだろう。まだこの先も成長してゆけるだろうか。どちらにしても、そう信じて努めていきたい。
あの頃、(わかりやすく殴られていたならまだ良かった)と何度か思ったことがある。今ではそれも愚かな考えだとわかる。でも、まだ今のように言葉が出揃っていなかった頃、俺は俺の苦しみに自信が持てなかった。「苦しみに自信を持つ」、なんと変な言葉だろうと思う。でもこの表現はあの頃の俺の感覚をよく表していると考えている。
皆様が虐待と聞いてすぐに浮かべるものはなんだろう。やっぱり暴力行為だろうか。今ならネグレクトや金銭搾取、行動制限等様々な状態や状況が浮かぶ方も居るかと思う。この様に理解が深まったのは、多くの当事者の方々の勇気ある声やそれを受け止めた方々、研究等の成果だと言えるだろう。
児童虐待の定義の中には心理的虐待というものがある。あの頃はまだ検索ツールとしてのインターネットは今のように身近になかったし、SNSも普及していなかった。どちらかがもう少し身近にあれば俺は苦しみに自信が持てていたと思う。定義化と命名は、コミュニティを作る。わかりやすく言えば、「ここは魚屋である」と看板が掲げられていれば、そこには近い目的を持った人々が集うことが出来るということである。コミュニティからは、この私の苦しみが異常ではなく正常であると知る機会を作る。「私が異常なだけなのかも知れない」という痛みを併せ持った想いは、「私は少数派の人間だけれど、一人ではない。異常ではない。」というものに変わる。もちろんこれらの変化を経ても、苦しみ自体は変わらない。それでも私は、過去の自らを想うと、この違いが非常に大きなものであると今では理解している。
世界を一人でずっと歩いている感覚を抱いていた。それは今も変わらないが、ワクワクしながら旅をしている感覚もまた抱いているので昔とは違いがある。砂漠地帯を歩きながら、果たしてどちらへゆけば人が居るのか、水があるのか、今どこに居るのか、何もわからず歩き続けて数十年が経過して、今ようやくここに居る。私は今私の言葉で自由に語ることが出来る。
ごめんなさい。ここに記すことに力を尽くしているのだけれど、今も思考が乱れたり疲弊したりして、まとまりを維持することが難しい。乱文を許して欲しい。あと一踏ん張りしたい。私は私のことを本稿だけで書き切れないということを理解している。それでもこの文章を書くことが、明日もその先もまだまだ生きていくということに向けて橋をかける行為だと信じている。
最後に、私は殴られたわけでもなく、閉じ込められたわけでもなく、大切に育てられたと思っている。ただ、早くから身に付けたくもなかった能力を身につけなければならなかったことについて苦しい想いがある。冒頭に「犬」という文章を書いたが、私は女性の表情から何かを汲み取り、叫び声に、存在に、何かを映していたのだと思う。苦しかった。
私は世界への恨みから、露悪的に振る舞い、たくさんの人を傷つけて来た。それらは赦されることではない。そんな人間が言葉を使っていいのだろうか。こうして創作したものを発信していいのだろうか。それはずっと消えないものだと考えている。ずっとこうやって考えていきたい。こうして書いていたって、こんな風に自分本位な形で締め括っていいのかと苦しい。そしてこう表すこともまた身勝手な行為だと思う。
今私は身に付けたくもなかった能力を使って、福祉の仕事をしています。福祉とは幸せと言い換えられる言葉だそうです。人々の幸せな暮らしを達成しようとすることを指すようです。例えば人様の表情、身体の強張り、声の抑揚、瞳の揺らぎ。それらから出来るだけ多くの仮説を立てて、想像を働かせています。人を恨んではいません。恨まれていることはあるように思います。これからも、陽の光を浴びて呑気に笑っていていいような人間ではないという想いが、折に触れて自らの精神を曇らせることにドキリとしながら、それでも少しでも良い人間になりたいと願って尽力してゆきたいです。
様々な方々のお陰でこうした場をいただけました。お陰様でここまで思考することが出来ました。ご覧いただいた方、私に思考の機会をいただいた方、関係する全ての方々にお礼を伝えたい想いです。ありがとうございます。