「周辺シ 4」クヮン・アイ・ユウ

2023年03月13日

 本来小さな世界であるのに、取り繕った多数派に属する事実で自らの世界を大きく見せようとする。一義的ではないはずが、その世界では一義的に社交性があるとされる住人たちから「お前には社交性がない」とされ、施すように「A,Bどちらかのグループに入れてやる」と言われる。
 孤独であるとされること自体の自身の痛みに目を向けるより、愛する人が私の置かれた状況を見つけた時の痛みを想った。それ程の真の強さと優しさを持つ人が、この世界を照らさないはずがなかった。どうしたって太陽は沈むが、熱を受けた子どもたちが次から次に昇るのを、誰にも止められなかった。優しさその光は、入り組んだ建造物の奥の奥、隅々にまで届く光。言葉は手段、こう生きるという目的と合わさることで最深部まで届き得るひたむきな光。



 学生時代と浪人時代、人前でご飯を食べる時や休み時間をやり過ごす時にはとにかく人気のないところを探し歩いていた。そのことに時間を要して、食べる時間や休む時間がほとんどないということも珍しくなかった。階段の踊り場で上下からの人の気配に意識を向けながら食べたご飯の味はあまり覚えていない。優先順位に従っていた。あれは何だったのだろう。私は周囲の人々に友人が一人も居ない人間であると思われたくなかったのだろうか。それとも自らの境遇と表情から醸し出される憐れさが人を不快にすることを察しての、つまり他者の為の行動だったのだろうか。
 ある有名な音楽家が語っていた内容に触れてから、多分もう十数年はこのことを考えている。
 今、私は自分の為に一人で食べている。それが楽で、美味しいからだ。こう書いて、何だかそれだけでは収まりの悪いものを感じていないと言うと嘘になる。しかしその実体が未だ不明瞭で、掴み切れないでいるということに嘘はない。音楽家の言葉について、これから先もまだ考えていくのだろうと思う。彼は自らの言葉について振り返り考えることはあるだろうか。それはわからない。反省を求めているのではない。ただ私は、そこにある過去の言葉を何度も読み解いて、痛み以外の何らかを見つけて行く必要がある。生きて行く為に。


優しさは光
入り組んだ建造物の奥の奥
隅々にまで届く光
言葉は手段
目的と合わさり
最深部まで届き得るひたむきな光





クヮン・アイ・ユウ