「太平洋の亡霊について」奥主榮

2024年09月14日

 往年のアメリカ製SF映画に、「禁断の惑星」という一作があった。人類が宇宙へと進出した時代に、ある宇宙船が故障で、一つの惑星に漂着する。過去に栄えた大規模な文明の遺産が残るこの星に、もっと以前に漂着した探査船の生き残りの男と、その娘が住んでいた。
 そうした設定で展開していく、SFミステリー的な作品である。美術的な面も含めて、僕がとても好きな作品である。
 この映画の中に、人間の思念を実体化させる装置というのが登場する。そんな作品を記憶にとどめ、後に自分の作品に反映させた脚本家がおられた。テレビ放映されるアニメーションが「テレビ漫画」と呼ばれていた時代から、多数の作品に関わって来られた辻真先さんである。
 ネットの無い時代であれば、苦労して詳述したであろうが、経歴などはすぐに検索できる時代である。夥しい作品に関与し、その多くがリアルタイムで見ていた子らに強い思い出を残したという方である。その夥しい創作力に関しては、こんなエピソードがある。
 「魔法使いサリー」に始まる、一連の魔女っ娘アニメのシナリオを担当し、放映終了後に絵本化の企画が持ち上がる。簡単な仕事だと思ったが、シリーズとして多数の作品を手がけ、基本的に似た設定の作品をどんどん執筆してきた。どの作品にどの登場人物を設定したのか忘れていて、慌てて物置に駆けこんで、過去のシナリオを読み返したというものである。
 そうした話から、商業主義的に作品を垂れ流す作家という批判をすることは可能であろう。ただ、そうした作家にも、拘りがあって描いたシナリオというのが存在する。
 石ノ森章太郎(当時は、石森章太郎という表記)原作の「サイボーグ009」が、最初にテレビ漫画として放映されたモノクロ・シリーズで、オリジナルのエピソードして描かれた「太平洋の亡霊」である。

 「サイボーグ009」そのものが、実はさまざまな誤解を受けた作品で、連載の初期には改造された人間を売ろうとした死の商人によって騙された民間人が、自分たちを改造した組織に抵抗して逃げ出し、刺客を送られるという物語であった。おそらく作者が描こうとしたのは、戦争を生みだす隠れた存在である死の商人の恐ろしさであった。
 しかし、作品を売りだしていくという過程で、劇場用映画化という利権も絡んでいく中で、単純なスーパーヒーローの物語として改変されていく。
 連載当初であった一九六四年(昭和三九年)の原作では、主人公009の設定は村松ジョーという名前で、混血児として差別されて育ったために、不良少年となり、少年院に入れられていたというものであった。この時代に混血児として差別されて育ったハイティーンの子とは、敗戦後に日本に駐屯した占領軍の兵士を相手にしていたパンパン(当時の名称)の生んだ子であることを意味していた。作中に明記されていた、父親は不明という記述も、それを裏付けていると思う。
 そうした物語も、東映動画とタイアップした劇場用漫画映画では、主人公はプロのレーサーという設定に改められる。石ノ森自身も、その設定での作品を数作発表している。職業的な作家としての器用さも持ち合わせていたのである。(当時の風潮は、そうした妥協を受け入れる作家に対して、差別的であった。しかし、現在では必ずしもそうした頑なな視点は支持されないのではないかと思う。)

 第一期のテレビ・シリーズの中で、「サイボーグ009」は、原作を元にしたエピソードと、石ノ森の他の作品を下敷きにしたエピソード、全くのオリジナル作品という三つのタイプによって構成された。
 そうした中で、石ノ森作品の一エピソード「移民編」を原作とした「悲劇の獣人」と、オリジナルの「太平洋の亡霊」は、リアルタイムで見ていた子どもの僕の心にとても訴えかけてくる作品であった。前者は、今日出版されている原作漫画の中では一部描写が改められている。未来に起こった核戦争で被爆した人間たちが、放射線の被害を避けて過去に移民しようとする。しかし、「獣人」としか認識されない。この辺りの、被爆という問題の描写の繊細さが、原作漫画の描写が修正されている所以である。(この周辺の事情は、手塚治虫の「火の鳥」の中の、「羽衣編」「望郷篇」の当初のアイディアが大幅に改変された事情と、とても似ている。)
 余談になるが、第五福竜丸の乗組員が米国の暴力的な核実験によって被爆したとき、「被爆した方々とは結婚できません」と発言し、不見識な発言をされたとして新聞記事になった女性たちがいた。しかし、僕の妻は当時の新聞記事のコピーを読んだとき、こんなことを言った。自分は、第五福竜丸の被爆者たちを、過去の事実の当事者としか思っていなかった。結婚相手として考えるか否かは、相手を自分と対等な立場の人間と思っているからこそではないか。私は自分と無縁の、距離がある場所にいる方々としか思っていなかった、と。
 一見、無慈悲なようでいながら、自分と一緒に生きていく方々という視点から感想を漏らした方々の方が、より被爆を身近な問題と受け止めていたのではないか。そう、妻は口にした。世界の現実の、非人間性を語る方々のどれだけが、自分も関わった問題として何かを語っているのだろうかと、そう思うことがある。

 もう一編の、「太平洋の亡霊」は、辻が先述の「禁断の惑星」にインスパイアされて書いたシナリオである。この一編、実は執筆当時から侃侃諤諤の議論が生じた作品だという話を、伺ったか読んだかした記憶がある。(若い頃の記憶は、曖昧である。)
 戦争で子を亡くした老科学者が、自分の思念を強める装置を開発する。そして、その機械の能力を借りた思念によって、かつての日本海軍の戦艦を蘇らせ、アメリカへの報復を開始しようとする。
 シナリオが描かれたのはまだ一九六〇年代である。当時、小学生だった僕の周囲には戦争の生々しい記憶を抱えた大人が、大勢いた。両親や、学校の先生を含めて。
 加害に対して、報復を求める。
 そうした発想の愚劣さを描いた作品であった。

 暴力に暴力をもって対すること。その哀しさを描いたエピソードだった。

 僕よりも、ここを読んでおられる多くの方々が、消費的な娯楽作品の中で、果敢な挑戦をされていった方々について知っておられるのではないかと思う。あれこれの特撮番組や、テレビ漫画、当時は低級なものと見做されていた表現手法。そうした中で、多くの制限を意識しながら描かれた作品。
 できるだけオブラートにくるみながら、それでも生みだされていった作品群。
 僕は、それらを軽視できない。

 「太平洋の亡霊」が石森プロ作品として、二〇二四年になってから漫画作品として刊行された。

 「サイボーグ009」は、今年は連載開始から六十周年記念とやらで、あれこれ話題性とともにリメイクされている。それらの一つひとつを貶めるつもりは、僕にはない。それぞれが、何らかの形で原作のスピリットを受け継ごうとしているのだろうと思う。ただ、今回出版された「太平洋の亡霊」は、原作に由来しないエピソードにも関わらず、何かしら本来の物語が伝えようとしていた部分を継承しているような印象を受ける。
 テレビ漫画版のオリジナルのシナリオでは描かれなかった、最終的なシークエンス。その部分に関わる細部の描写が、より丁寧に描かれている。結末へともつれ込む過程が、原典のシナリオよりより繊細で、そして丁寧に描かれる。
 非常に素晴らしい作品となっている。
 興味深いのは、こんな部分である。増強された思念の力によって復活した大日本帝国海軍の襲来によって恐慌に陥るサンフランシスコの街。テレビ漫画では、母親の手を離れてしまった乳母車が坂道を疾走していくシーンが出てきた。無声映画時代の映画「戦艦ポチョムキン」へのオマージュとも言える描写である。今回の漫画版では全く異なる表現に置き換えられている。今の漫画表現では忘れ去られた手法である、「モブ・シーン」として、たった二コマにまとめられているのである。(モブ・シーンは、集団シーンとも呼ばれ、かつては多くの漫画表現のクライマックスで使用された。大団円的なラスト・シーンで大勢の登場人物が一コマの中に登場するといった表現手段であり、モノクロ時代のハリウッド映画などの影響を受けている。手塚治虫、赤塚不二夫などが好んでいたが、漫画を読むときに一つのコマに目を留めず、さっさと読み進めていくという風潮の中で、時代遅れになった表現手法である。) また、二コマのモブ・シーンは、その一コマが石ノ森が好んで用いた、ネガ・ポジ反転の映像として描かれている。ネガ・ポジの反転した映像は、そこに何が描かれているかの判断に迷い、そこに目を留めさせる効果がある。
 読んでいると、あちこちの些細な部分が、あえて過去の漫画表現へのリスペクトやオマージュとして描かれているように感じられるのである。そのことによって、より描きたいことを明確化しているのである。
 そうした、ある意味現代だからこそ選んだ、表現手段の遊びのような部分が、この一冊には満ち溢れている。

 さらに、何よりも素晴らしいのが、この一冊の中での「事件解決」の描写である。この辺りの展開は、オリジナルの辻のシナリオをベースに、主人公がどこまでも相手に語りかけるという形で描かれる。言葉の無力さ、語り合うことの意味のなさといった話題が取り沙汰されている時代に、あえてそうした展開をしていく。
 確かに、言葉や説得という行為は、一見無力に思えるかもしれない。でも、どこまでもそうした方法で解決を見いだそうとした一人の人間が、平和的な帰着を生み出す。(作品を実際に一読すれば解かるように、そのことは主人公たちにも意識されないまま。)
 相手の良心に対して、心からの投げかけをする。それが何かしらの結果をもたらす。
 それは、それこそ甘い夢想なのかもしれない。

 けれども、そうした素朴な投げかけこそが、たまたまそれを目にした個々人に届いていくのではなかろうか。かつて、小学生だった僕の心に、テレビ漫画の一話が強い記憶を残したように。
 戦争の惨禍を語り続けることは、当然のことだという気持ちを、還暦を過ぎた老人になっても抱き続けていられるほどに。

 原作の連載開始から、六〇周年記念。そうした中での、便乗企画の一つかと思いながら、それでも昔子どもの頃に目にしたテレビ漫画の衝撃が忘れられずに、描き下ろしに近い作品を読んだ。そして、僕自身はとても素晴らしい一冊だと思った。

二〇二四年 八月 二六日






奥主榮