「寺西幹仁さんの詩集を朗読して」香澄 海
2020年10月から一年かけて、寺西幹仁さんの詩集『副題 太陽の花』を、各地のオープンマイクで1~2編ずつ朗読させていただきました。馬野ミキさんから、何故そうしたのか、その辺りのことを書いて欲しいと依頼されて、立ち止まって考えてみることにしました。
2007年10月に寺西さんが亡くなってから、もう14年以上経ちます。一昨年、ふと寺西さんの詩集を読み返していて、「そうか、もう13回忌になるのか」と気づいたこと、一つ一つの詩に強く寺西さんを感じたこと、そんなことが重なって、人前で朗読したいという気持ちになっていきました。
詩誌「詩学」の編集長だった寺西さんとはある時期、詩学社主催のワークショップ・青の日で月に一度お会いしていました。持っていった詩について、寺西さんはいつも、とても丁寧な語り口でコメントを寄せてくださいました。
ワークショップの後の飲み会も楽しいもので、私が「詩って、呪いみたいなところがありますね」と言った時に、寺西さんが真剣な顔で、「詩という漢字には、寺という字が含まれているでしょう。だから、そういうことは当然あると思います」と仰っていたことを思い出します。
寺西さんが亡くなった頃、私は3人の友人を自死や突然死でなくしていました。寺西さんとは詩学社から詩集を出そうかという相談をしていた時期でもありました。
訃報を聞いたとき、私は寺西さんとの約束が守れなかった自分の不甲斐なさを後悔し、体調をひどく崩して引きこもり生活になっていきました。
何故そこまで落ち込んでしまったのか、自分でも理解できないし、持病の躁鬱のためかもしれません。ともかく、そうして、私は詩の界隈から距離をとり、自分だけが読者であるもの以外は書かなくなりました。
ずっと遠ざかっていたオープンマイクに参加しようと思ったのは、ちょうど馬野ミキさんが新たにイベントを始めると聞いたことも理由の一つです。ミキさんと寺西さんはとても親しかったからです。
せっかく参加するならと、久しぶりに詩を書きました。寺西さんの詩を朗読することで、人前が苦手な私の緊張が少しほぐれて、ふるえながら自分の詩も朗読することができました。まるで寺西さんに手を引かれているような感覚になって、ずっと「ごめんなさい」と言い続けていた寺西さんに、久しぶりに「ありがとうございます」と言えたのです。
当初は寺西さんの鎮魂のために、寺西さんの詩を聞いて欲しいからと始めたものだったのが、私自身がどんどん変わっていきました。改めて、詩集を読む楽しみも味わうことができ、色々な朗読を聞きたくなっていったのです。
それでも、私のことだから、また落ちる時はやってくるでしょう。だけど、きっとまた、寺西さんの詩集や寺西さんとの思い出は、これからも私の道標になってくれると思います。