「映画「たいせつなひと(仮)」について 論理と情緒」奥主榮
僕が小学校を卒業した1970年代の初めに、「探偵〈スルース〉」という映画が公開された。ヒットした舞台劇を元ネタにした作品である。実際に観たのは、数年後にテレビ放映されたときであったが、とても興奮した。
「一カ所でもセリフを間違えたら舞台が成立しなくなる」というぐらいに緻密に作り込まれた作品なのである。展開の一つひとつに、「え! こんな伏線があって、こうなっていくの?」と、とても興奮した。
これに似た趣向の映画に、1980年代初めの「デストラップ・死の罠」がある。こちらも綿密に伏線が張り巡らされていて、だからこその意外性が魅力であった。
こうした映画の魅力は、ある意味では情緒的な部分を排除して、論理的な展開の中での応酬の面白さを描くことによって成立する。「コンゲーム」と総称される、策士と策士の間での、計略の仕かけ合いを背景にした、緊張した世界。そういった背景の中で展開される物語では、情緒は排除されて、論理の勝敗が明確になっていく。むしろ、情緒の絡まない、論理的な設計の上に成立する面白さに頼る娯楽作品。
そうした、ロジカルでトリッキーな作品作りは、当然のようにセンチメンタルな感覚とはそぐわないものと思われがちである。むしろ、知的に構築された世界を娯楽として楽しむ要素を、阻害するものだと受け止められかねない。
しかし、そうした先入観を覆すような映画を拝見することができた。表題にもある、「たいせつなひと(仮)」である。
知的なゲーム的な要素を含む作品に、情緒的な感性が持ち込まれることに、抵抗を感じる作品の鑑賞法もある。それは当然、一つの見解である。ただ、僕はこんなことも感じるのである。「探偵〈スルース〉」の中の人間関係は、ぐずぐずのぬかるみ状態である。アメリカの代表的なミステリー作家であるエラリー・クイーンなど、作品の多くが背景には絡み合った個々人の間の、執拗にまとわりついてくるような人間関係というものが存在する。そうしたことを考えると、だからこそ、娯楽作品として一定の方々に受け入れられるためには、情緒を排除して論理的な応酬の面白さを強調せざるを得なかったのかもしれない。
「たいせつなひと(仮)」」という映画は、トリッキーでありながら情緒的である。しかし、観ている人間の心に訴えかけてくる部分というのが、論理的な展開を楽しむことを一切邪魔していない。むしろ、知的な作業によって物語を成立させていることが、登場人物が抱えた心の襞を浮き彫りにしてみせる。
もしも作品というものが、描きたいメッセージをストレートに伝えるだけのものであれば、それはプロパガンダの一種のようなものにしかならない。しかし、どうしても作品に触れる方々に対して何かを考えてほしいのであれば、緻密で繊細な作業が行われる。
「たいせつなひと(仮)」という映画は、そうした丁寧さの中で作られている。
「どんでん返し」とでも呼べば良いのか。物語に騙されながら、観ている僕らはそこからさらに深く考える。そう、例えば題名の「たいせつなひと(仮)」の意味を。
(仮)という言葉の意味が、さりげなく明かされるラストシーンに、僕は目に涙が滲んだ。
論理的に組み上げられた世界が、同時に受け手の心の些細な感覚に訴えかけてくる。
この映画は、奇跡のような一作品である。
2024年 10月 14日