「映画「小学校 それは小さな社会」のこと」奥主榮

2025年04月17日
日本の小学校を描いたドキュメンタリー映画が、海外で高い評価を受けているという記事を読んだ。ただ、その内容を読んでいて、何か引っかかるものを感じた。記事の中に、こんな記述があったからである。今まで、特別な指導方針の学校が取り上げられることが多かった。しかし、そうではないごく一般的な日本の小学校を描きたかった、といった文言である。 僕はこれまでに、むしろきちんとした信念に基づいた運営を行っている教育機関のドキュメンタリーに惹かれることが多かった。といって、一般的な学校を撮るという姿勢そのものを非難するつもりはない。ただ、どうして「こういうものとは別なものをやりたい」と、他の映画を引き合いに出してくるのであろうか。「自分はこういうことがしたい」だけで十分なのではなかろうか。そんな疑問が、心の中に浮かんだのである。 

 機会があれば見ようかなといった程度の認識でいたのだけれど、詩人の石渡紀美さんがSNS上に、この映画の(多分宣伝のための)抜粋動画を、かなり強い嫌悪感とともに紹介しているのに出会った。その、二十分余りの映像について、少し僕の考えをまとめてみたい。

 このダイジェスト動画では、小学校の子どもたちが、ベートーベンの第九を練習する様子がまとめられている。しかし、けして楽しげではない。子どもたちの「音楽教育」の指導を担当している男性教師は、異様に強迫的な言動を取り続ける。児童の落ち度をあら捜ししては、泣きながらの「自己批判」へと追い込んでいく。まるで、圧迫面接のシミュレーションである。また、複数の教師が高圧的な態度と優しい態度を使い分ける様子は、深沢七郎氏の小説「絢爛の椅子」を思い起こさせる。この物語の中では、二人の刑事が容疑者を自白させる為に「厳しく責める役」と「優しく諭す役」を分担する姿が描かれる。
 ダイジェストの映像に登場する教師たちは、「君の為に」という主張をくり返しながら、自白を強要する刑事のような、何か別の目的を抱えて言葉を重ねているに過ぎない。自己欺瞞に満ちた、空疎な存在である。
 僕は、ふっと思い出した。冤罪事件が生じる背景の事情のことを。
 犯してもいない殺人事件などについての取り調べの中で、容疑者が取調べ担当者がでっち上げた供述内容を受け入れてしまう背景には、鎖された場所に歪んだ価値観が持ち込まれ、そこにいる人間が無言で同意を強いられる空気が醸成されるというやるせない現実が存在しているのである。まったく事実無根であるにも関わらず、「これだけ熱意を込めて話しかけてくるからには、同意しなければ申し訳ない」という気持ちに追い込まれていくのである。(1970年代の後半に、つかこうへい氏の芝居の中で描かれた逆説的な被害者と加害者が一体化するという状況は、けして絵空事ではなかったのである。) ある意味での「洗脳」を受け、「はんせいのことば」を口にする児童の姿は、とてつもなく痛ましい。同時に、どんな成人へと育ってしまうのだろうかという、絶望さえ覚えさせる。
「惨たらしい」としか言いようのない「日本の一般的な教育」を描き出している。

 ところで、日本の公教育というのは、実は「皇国臣民育成」の為に始まっている。江戸時代の寺子屋は、民間で行われた制度であり、公権力の価値観からは解放されていた。(といっても、社会制度の基幹をなしていた儒教的な価値観に基づくものではあったが。)
 いわゆる明治維新以降、明治時代の最初の十年間は、旧体制(徳川治世)への復帰を望む反乱が多発していた。そうした中で、国家に従順な人間を育成していく必要が生じ、義務教育が行われるようになった。このことの是非は、個々人の見解によって異なるであろう。ただ、公教育がある意味では「洗脳」の要素をもって始まったことは意識すべきであろう。 
 もう一歩踏み込んで語れば、植民地での教師として任にあたられた方々の中には、自分の理想と目の前の現実とのギャップに苦しまれた方々も、数多くおられたと想像してしまう。

 さて僕は、「自分の為に」生きている。他の誰の為でもない。僕個人の為である。
 我が侭だと言われようと、思いやりがないとそしられようとも、僕の存在意義は、「自分の為に」である。「君の存在が周囲に迷惑をかけている」という、動画の中でくり返される主張は、僕には滑稽なものとしか思えない。僕は、あらゆる人間の存在は、他の誰かの負担の上に成り立っていて、同時にそのことを一切責められるべきではないと考えている。 
 自分の存在が、他の誰かにとっての壁である。
 この映画に登場する「教師」は、自分が日常生活の場において、ときには「加害者になる」という想像力を、決定的に欠いている。愚劣、という言葉を用いても良いレベルである。しかし、そのことを弾劾する気持ちにはなれない。無意識の内に自分が加害者となるという発想を得られないまま、ある意味では幸運な環境の中で育ったのであろうなと、そう思うだけである。

 ダイジェストの動画の中では、先述のようにベートーベンの第九交響楽のハイライトである「歓びの歌」の練習風景が描かれる。しかし、あのはじけ出るような歓喜の曲が、まるで葬送行進曲のように奏でられるのである。暗澹たる気分に陥った。それは、拷問のような「練習」の果てに奏でられる「歓喜」においても変わらない。ただ苦行の果てのような、見苦しい演奏が行われるのである。


 デュダメルという指揮者がいる。
 僕がデュダメルを知ったのは、彼を追ったドキュメンタリー映画がきっかけであった。高い評価を得ている指揮者である。ベネズエラの出身であり、国外に追放されている。また、彼が本国で活動を許されていた時期の楽団員は、(政府への抗議活動を理由に)楽器を壊されたり、指を傷つけられたりしている。
 クラシックの指揮者として高い評価を受けながら、デュダメルの指揮する音楽は、とても色彩に満ちている。僕は、ドキュメンタリー映画を観たことをきっかけに、彼の指揮する楽曲を検索した。そして、圧政下に生きてきた指揮者の、「音楽を楽しみたい」という生き方に、深い感銘を受けた。
 アカデミズムや名声とは無縁に、デュダメルは、音楽を奏でることの楽しさを訴えかけてくる指揮者なのである。
 ドキュメンタリー映画の中で、第九の指揮をするリハーサル・シーンがある。短く的確なアドバイスによって、演奏はけた違いに素晴らしいものへと変貌する。

 音楽は、描くことは、表現することは、そこに至るまでの過程では苦しみがあるかもしれない。けれど、自分が矯め込んできたものがはっちゃける瞬間、公へと披露される溢れる思いが迸る。

 僕にとっては、「小学校 それは小さな社会」の醜悪なダイジェストは、「音楽を殺す事例」の証左のようなシロモノでしかなかった。

二〇二五年 四月 四日





奥主榮