「時間の層が重なって――一方井亜稀詩集『透明ディライト』(七月堂)を読む」ヤリタミサコ

2024年12月31日

 装丁がシンプルで美しい。手に取った感じがデイライトdaylightであり、ディライトdelightだ。詩集タイトルの英文表記は「tomei delight」なので喜びの意味が大きいが、背景には日の光の恩恵があるはずだ。カバーから数ミリだけ覗く表紙の銀色の輝き、トランスペアレントシートの帯から透けて見えるカバーに印刷された抽象画、強弱のあるグレーのヴァリエーションによる文字。禁欲的なたたずまいの豊穣さを予感させる。
 「夜を追う」という詩では、書き手は「誰かと比べないことと/もっと辛い人もいるからと耐えることは/両立するのだろうか」と自問する。答えはないのだが、「書くたびに消されて/堆積した文字がある気がして」道路に視線を落す。辛い時間が積み重なる過程で、見えなくなるものを慨嘆しているようだ。次に続く「セブンスター」では、「セブンスター/今はもうない/日々を重ねる/傘を打つ/雨の音ばかりが増して/雨を見失う」と、「七つの星」というネーミングのタバコ文化が失われたことに重ねられて、身近な何かを失って途方にくれる感覚が描かれている。
 詩集全体としては、喪失とあきらめが通底音のように流れていて、それを受容して不在を抱え込んで立ち上がろうとする方向が感じられる。「開花」という詩では、

   自動ドアが開くたび
   張り紙がひらひらと捲れ上がって
   今日付けで
   この店は閉まるという

   眩い光に
   どんなにしかめ面をしても
   見つめるほど
   輪郭が失せていく
   希望を持たずに
   生きてきたはずもない

   舗道の花が
   解けていく
   のが
   きれいだ


 と、見えなくなる何かから、新たな変化を予見している。
 失ったものは何なのだろうか。「アンテナ」では「ここからなら何でも見渡せる/気がしても/こんなにも変わっていく/ただ同じ場所に立っているのに/もう会えない」と失った人を思い描いている。人は、人生の前半は冒険と手に入れるものの方が多いけれど、後半に差し掛かってくると諦めと喪失の方が多いのではないか。友や親などの身近な人たちを失い、記憶や思い出を共有する対象を失い、そうすると自分だけの記憶になってしまって記憶さえも孤独になる。そして、その孤独とつきあいながら不在を見つめ続ける時間が続く。
「春の川」の最終連は、「春の川は/まるで/何事もなかったかのように/空を映し/幾筋もの/光りの束を浮かべて/眩しい」と終わる。そうなのだ、心底辛い別離を体験し夜明けさえも信じられなくても、自分の心情とは関係なく季節は進行していく。呆然としながら外界は無情だと感じ、世界の時間の流れの中にいる自分を持て余す。自分とは関係なく機械的に進む時間。でも、闇の底にいたような気分が、春になって川の光りを浴びるようになっている。かすかに春の風を感じることができる。
 喪失と不在、それと向き合うプロセスは苦しい。日常的な時間というある種の鈍い装置から抜け出せないしがらみに囚われて、それも苦しい。たとえずっと目に焼き付けていたいと強く願っても、慣れ親しんだ土地や風景にどれだけ愛着があっても、日常的時間が積み重なることで見えにくくなるし、外界の諸条件によって覆い隠されていく。そうして世界は自分から分離していき、自分の内部の時間を別途確保する必要があるのだ。希望という言葉は他者の言葉であるから、自分なりの別の言葉や感覚を持てたときに、ようやく落ち着く。何事もなかったかのように、ではなく、何事かあったかのように。





ヤリタミサコ