「晴天の詩学8ー「現代詩とは何かー答える」シーズン2 水曜日のクロッキー」平居謙

2023年05月05日


連休前に同僚が「この連休は、じっくり家で論文を書くんだ!」と意気込んでた。やる気オーラが身体から放たれている。むんむん煙が出てる感じだ。どうしても書かなければならない本があって、その中の何章かだけでもじわじわ書き進めておきたいのだという。「偶然!全く同じだね!」と心の中で握手した。10日間をパーフェクトに使えればかなりのものを書くことができる。


ところが好事魔多し!実家のご両親の容態が思わしくなくて、連休中は遠方の実家でまるまる過ごすことになってしまったそうだ。そんなメールが連休初日にやって来た。「うーん、それは大変ですね。。。」と励ましのメールを打った。ところが自分もその直後、どこかそれに似た状況になってびっくり。「偶然!全く同じだね!」とまたまた心の中で握手した。


論文を書く場合、資料と睨めっこしながら、十二分な時間をかけて推敲に推敲を重ねる。それに限る。論文にとってのパーフェクト環境は言うなれば〈無限の時間〉。もちろんそんなものはあり得ないのだが。


一方で詩にとっては?詩にとっての〈無限の時間〉を考えてみた。一篇書いて、それを寝かせる。気になって、一か所直す。もう一度寝かせる。また取り出して、気に入らないところを修正する。そうやって少しずつ形が出来てゆくタイプの詩もないわけではない。僕自身もいくつかの詩はそうやって書いた覚えがある。しかしそればかりだとちょっと違う。詩の中には少し異なる形で獲得されるものも確かに存在している。


小学校3年生の頃。たぶん担任の先生が美術系に強く興味があったのだろう。毎週水曜日に必ず、朝3分間クロッキーの時間があった。誰か一人友達がモデルになる。週替わりだ。「先週はなりーんだったよね。今日は北口さん。で、来週はハマチ。」そんな感じで。予鈴が鳴ってから授業が始まるまで、3分間で仕上げるのだ。


顔がなかったり、手の先まで書く時間がなかったり。最初の頃なんか〈似顔絵〉みたいになってしまって〈全体を描くのよ、ひらめちゃん〉なんて言われたりした。(僕は名前通りひらめと呼ばれていたのだが)。徐々に慣れてきたら、瞬間で全体像を摑むことができるようになった。そんなことが頭を過って、詩は僕にとってクロッキーなんだと今ごろになってやっと気づいた。


論文は適正な時間がないと書けないし、たぶん小説だってそうだろう。でも詩は違う。日原正彦という人の詩集に『瞬間の王』というのがあるが、まさにそれだ。瞬間で世界の王になるのだ。(日原さんの詩集は読んでないので、全然ニュアンスが違うかもしれないですが、ごめんなさい)。


忙しい時、その気にならない時、座ってられないとき、お茶を飲んでいる間。鉛筆を削っている暇。パソコンが立ち上がるのを待っているとき。スマホを充電器におくその瞬間。詩は突然現れる。そして水曜日、3分間のクロッキーでその全体を捕らえるのだ!





平居謙