「現代詩とは何かー答える」⑧ 平居謙

2022年06月01日

シリーズ 短小突貫ヘンタイ式連載
「現代詩とは何かー答える」⑧  (6月号にアップ予定) 
「平居謙著作集」のこと‐蜘蛛出版・君本さんの思い出


その昔。蜘蛛出版という出版社をやっておられた君本昌久という方に叱られたことがあった。1980年代後半か90年代最初あたりだったと思う。詩のイベントの打ち上げで、君本さんは若手詩人の福田知子さんらとともに楽しそうに飲んでおられた。そこに僕が割り込んだのだろう。割り込んだから叱られたのではない。酒席での割込みくらい当たり前だ。楽しく自己紹介などしたりしていた。しかし僕が彼に渡した名刺代わりの冊子を見た時彼の顔つきが変わったのだ。



その冊子には「平居謙著作集」と印刷されていた。著作集というのはもちろんシャレで、20代の青二才が「著作集」などあるはずがない。その頃ようやく活字になった何篇かの詩と、大学院時代に書いた、高橋新吉『まくはうり詩集』に関する素朴な論文のコピーを束ねてホチキス留めしただけの粗末な代物だった。いつか著作集が出るような書き手になりたい。僕はそう思ってはいたけど、このホチキス留めの代物が著作集だとはさすがにおもってもみなかったのだ。「君ねえ、著作集というのはこんなものじゃないんだ。こんなものに著作集なんて言ってはいけない」静かに諭すように君本さんは僕に言われた。



当時僕は、感情を露わに先輩たちと議論することもしばしばだった。こいつら何も詩のことを分かってへんやん!と怒る気持ちも少なくなかった。しかしこのときは何故だか「確かに。。。」と思って特に反撥したり言い合いになったりしなかった。ただその後も「どうして、ただの洒落で書いた程度のことに彼はあんなに食いついたのだろうか」とずっと気になっていた。


改めて調べてみると、蜘蛛出版は神戸の会社で、主に個人詩集を中心として100冊以上の書籍を敢行している。なるほど、そういう地道に出版社を運営している編集者なら確かにぺらぺらのコピーに「著作集」って書かれてたら、ちょっとむっとしたのかもしれないなと今になるとそれに気づく。


最近の詩の賞は、安価な簡易印所で作った冊子のようなものが応募されても「詩集」と認めているようである。中には狡い人もいて、3冊目までの詩集が応募対象だというので、賞が没になったらそのぺらぺらの冊子は「なかったこと」「詩集じゃなくて、単なる冊子でした~」ということにして、「当たり」がくるまでえいえんに賞に応募する。そう言えばかつて僕の周りにもそんな若手がいた。

そういうものを認めると、賞に応募するためにぺらぺらの詩集を作る人が増えるだろう。安いから、テキトーなものをどんどん賞狙いで作ってゆく。賞も応募数が増えて注目度も上がるわけだ。もちろん、重要なのは外見でなく中身だ、というのは真実だ。問題は、その冊子に愛情を注ぎこむのではなく、賞に応募するためのツールに使うということだ。

政治の道具にされた時、詩が死ぬのと同じで、賞応募のためのツールになった時、詩集の精神は死んでしまう。理屈はぺらぺらの安価なものであっても、お金をかけたものであっても同じだが、安価なものは繰り返すことになりがちだからより問題は大きい。ある賞の選者など「薄い冊子でもどんどん応募してね」的に募っている。ばかやまぬけはどの世界にもいる。



冊子にせよ、詩集にせよ、自分がどこまで来たかの一里塚である。その時点で自分の頂点を確認するという意義がある。誰かが評価してくれること、それは副次的な歓びである。賞を取らねば不安だ。本当にそう思っている人がいるとすれば、彼または彼女は、詩人という存在ところから最も遠くにいる。最もよくあるコピーライターの一人に過ぎない。最初に書いた君本さんはすでに亡くなられたが、彼ならどのように考えるのだろうか。あの宴席の日に戻って、尋ねてみたい思いがしている。







平居謙