「現代詩とは何かー答える」11 詩と真摯さ 平居謙

2022年08月31日

シリーズ 短小突貫ヘンタイ式連載  
「現代詩とは何かー答える」 11
詩と真摯さ


人間にとって 真摯な態度とは一体何だろう。


極端にまで真摯さを貫こうとすると、そのこと自体へのこだわりが第一命題となって、真摯さは消え失せてしまう。そのぎりぎりのところまで近づくことが現実的には人間にとっての真摯さになる。


1985年にダダイスト高橋新吉を東京中野のご自宅に訪ねたときもう、かなりの高齢であった。そのことを関西に戻ってからある知り合いの文学研究者に話すと「もうすぐ新吉さんは死んじゃうからインタビューさせてもらってカセットに録音しておくといいね」と僕に言った。僕は彼の言葉を憎んだ。


プロ意識というのは或いはそういうものなのかもしれない。あるいは新吉本人も、それを望んだかもしれない。けれども、「もうすぐ死んじゃうから今聞いとかねば」と発想する研究者の心はさもしいと思った。それならば研究者なんて願い下げだと祈った。


最近少し似たようなこと、今尋ねておかなければ話を聞く機会はないかもしれない、ということがあった。いろいろ悩んだが、結局止めにした。かつて僕に「インタビューをしときなよ」と言った研究者の言葉を憎んだ心の、当時透き通っていたことを思い出したからかもしれなかった。その時と同じようにせめて今でもその点だけは透き通っていなければならないと思ったからかもしれなかった。


別に正答はないし、全く他の考え方だってあるに違いない。しかし僕にとってはそれが正答に違いないんだ。


詩人に対して真摯であろうとした。それは詩に対して真摯であろうとすることと全く同じではないけれども、きっとどこかそれは似ている。


馬野ミキに告ぐ。君のリクエストに答えようと「現代詩とは何か―答える」なんて大きく出た。けれどもどこかまだ答えの周りをぐるぐる回っているよ。1年間、お世話になった。馬野ミキが読んでくれてると思うと、何か書くのが楽しかったよ。次回からは本サイト編集を「東京荒野」の湯原さんにバトンタッチする、ということで今度は湯原さんに向けて、「現代詩とは何か」を書くことにする。けれども結局それは馬野ミキの問に答えることでもある。ゆっくり休みながら、スタバの陰で見守っておくれ。








平居謙