「現代詩とは何かー答える」1  現代詩と指  平居謙

2021年11月04日

シリーズ 短小突貫へンタイ式連載 「現代詩とは何かー答える」1 

「現代詩と指」


馬野ミキが「現代詩とは何か」 ということを書けと言う。書かないではないが、何だか漠然としてるな、と言うと、しゅんとした。可愛い。馬野の言うことは断ってはいけないような気にさせるのは、奴の独特の動物的習性なのだろう。野蛮な魅力がある。それで直ぐに描く事にした。書く以上は僕にしか書けないことを書きたいね。ちょっとずつ色んな事を書いてゆこうと思うよ。


さて今僕は、ある連載のために近現代の詩と「京都」との関係について調べている。その題材を手に入れるには、調査が必要。どんな詩人が京都のどの場所のことを詩の中で書いているかに目を通さなければならない。調査と言えば聞こえはいいが、要はネタ探しである。そのために片っ端から 個人全集やアンソロジーの類を読んでいる最中である。本当は珈琲でも飲みながらのんびり読みたいが、作品の中身をじっくり味わっていると埒があかない。作業が進まない。だからまあ何というのだろうか「指で読む」ような形をとらざるを得ない。


全集の紙面を指で撫でるように「京都」関係する地名はないか、そればかり見てゆく。指に目があるような気持ちになる。こんなことしていていいいのかな、なんて最初は感じていたが、そのうち「ああ、これは意外に詩を読む普通の読み方に近くもあるな」とある日思った。書店の棚から出し自分の趣味に合うかどうかをチェックする時や、知らない書き手から送られてきた書物を手にした時は、そういえば指ですうっっと、つつつと頁を撫でている。不思議なことにそれで分かったりする。やっぱり指の先には、視覚に似た感覚があるのだろう。


最近撫でてみて、一番よかったのは菱山修三『夢の女』である。特に文体の締まりがよかった。きゅうっとしている。色艶がある。阪本越郎の天使の感触も格別であった。だが跋文を伊藤整が書いていて、さらには天使ミカエルなどという名前が出てくるものだから偶然最近読んだばかりの伊藤整『街と村』との関係が気になってしまって、内容にあやうく指を突っ込んでしまうところだった。そんなことをしているうちに京都の話を見失ってしまった。もっとも人生を横道に逸らせるのは常に天使と相場が決まっているから、当然だとも言えるのであるが。


そのむかし、油絵をやっている友人たちと誰かの個展を見に行ったことがあった。そうすると彼らは絵を楽しむのではなく、近づいていってこれは何とかいうブラシを使っているだの、この絵具は何という色だの、そんなことばかりを言っている。素人から見るとトンデモない話なのだが、楽しくて仕方ないようで二人とも絵の前を離れようとしない。そういえば(さすがに触ってはいなかったが)彼らのどちらも絵に手をかざすようなことをしていた記憶がある。彼らの掌にもやはり目がついていたのかもしれない。


現代詩とは何か。内容を読んで理解する、その以前に、指でさわる「感じ」。その感じのことをわれわれは仮に「現代詩」と呼びならわしているだけではないかとさえ僕は思う。