「終わりが来る前に」奥主榮

2025年01月23日

 四十年以上前、まだ大学生だった頃に、ボランティアとして募金活動をしたことがあった。交通事故で働き手を失った家族への援助活動であった。

 僕が物心ついていった時代は、一九六〇年代の高度成長期。自動車による移区は動が、急速に発展していった時期でもあった。同時に、効率的であることが至上の価値観が世間を支配していた。そうした背景の中で、速度制限や飲酒禁止などを黙殺した行為が「カッコ良い」と見做される価値観もあったのである。日本が高度成長期にさしかかる1960年頃の娯楽映画を見ていると、若い女性の「一杯飲んでから、スピード違反でぶっ飛ばしてくるわね」みたいな、とんでもないセリフが飛び出してくる。今からは想像もつかないかもしれないが、自動車を運転する人間は、ある種の特権階級みたいな認識のあった時代に、僕は物心が付いていった。
 そんな時代に生きていたので、そうした安易な効率至上主義的な価値観の生み出す影の部分も目の当たりにして育ってきた。そうした僕には、交通事故による遺児というのは、とても身近な存在であった。

 十数年前、同じ団体の募金をしておられる若い方々を見かけた。その折に、交通事故での遺児だけではなく、過労死や自死による遺族への募金活動も行われていることを知った。とても衝撃を受けた。

 当時、僕は既に四十代を迎えていた。僕の感覚からすれば、家族のおられる方が自死を選ぶなどというのは、よほど切羽詰まった事態でしかない。僕が子どもの時分にも、生活苦というのはあり、それとは別に自死遺族はおられた。けれど、交通事故遺族に比べれば、遥かに少なかった記憶がある。僕は、募金をされている方々に問いかけていた。
「すみません、自死遺族の数って、増えているんですか?」直截な問いかけに、若い方は、躊躇いがちに答えた。
「多くなっているそうです。」
 その返答を耳にしたとき、僕は、目の前にいる方々に、思わず頭を下げていた。
「こんな社会にしてしまって、ごめんなさい。」それ以上は語れなかった。何を口にしても、卑劣な弁明にしかならないと思った。僕はもう、四十代の半ばであった。この社会を生み出してしまった一人は、「自分」なのだと、そう思った。
 四十年以上生きてきて、そうした子どもたちが生み出されたことに責任がないなどとは思わない。
 滑稽に思われるかもしれないが、理不尽な世界を許容してきた「大人」の一人として、とてつもなく胸が痛んだ。

 と、偉そうなことを書きながらも、僕は貧乏な一介の塾教師。世間的な評価などないちっぽけな生活者にすぎない。たった一つ、職場の方々とか近所のお店の方々と違ったことをしているのは、詩を書いているということだ。「何の役にも立たない」と言われながら、ただ金にもならない詩を書いてきた。
 拙い作品を、衆目に晒す際に、僕が心がけてきたことがある。
 僕は、偉そうに何かを語りたくない。まるで鳥瞰図を得たもののように、高みから何かを語りたくない。
 そんな、たわ言のような詩で、何かできるのであろうかと、そんなことを考えた。僕自身は、子どもの頃に児童図書やポピュラー音楽によって救われたという、自らの経験があった。もちろん、僕を救済してくれた作家の多くは、世間からの評価も高かった方々である。僕には、とても手の届かない高みで活躍されてきた方々である。そうした先達に比して、僕は圧倒的に無力である。
 無力な自分が、どう動けるかという模索の中で、本名の関明夫名義の詩集「みらいのおとなへ」が生まれた。印字される書体さえ、塾教師である僕が実際に目の前におられた「みらいのおとな」たちの意見を伺いながら選んだ。手描きの文字に近い「教科書体」を僕が選び、幾種類もある「教科書体」のバリエーション(同じフォントでも、いろいろな個性があるのである)の中から、「このタイプだと子どもっぽすぎるから、こっちの方が良い」といったアドバイスを、目の前の子どもたちがくださった。

 僕は、装画や装丁を担当された方々にも恵まれていたと思っている。全ての詩集や、エッセイ集に関して、僕がまとめた一冊を、それぞれに最大限に、魅力的に見せてくださる方々と出会えてきた。
 そうした経験の中で、ある時期から、僕は自分が最後に何を残せるのかなということを考えるようになった。

 僕にだって、「この世界を変革し、困難な何やらを、どうにかしたい」という気持ちはある。けれども、実際にそうした願いを実現する能力は残念ながら、ない。また、そうした思いが過剰な年長の世代を目の当たりにしてきて、偏狭な正義感や一方的な正義の言い分からは距離を置きたいと感じていた。
 そんな僕がしてきたことと言えば、まるで無力な阿呆のように、世間様からの評価などとは無縁な詩を描き続けるだけである。ただ、愚か者のように描くことをくり返すだけである。
 ただ、楽しいから描き続けること。

 たとえば僕は思い出す。もう十年以上も前であったろうか。僕は、左足の脛骨を折って、入院した。後に誤診と分かるのだけれど、一時期折れ方が特殊で、一生車椅子か松葉杖の生活になるだろうと告げられた。(骨が斜めに、折れるというよりは割れていたのである。) 病室からリハビリ室に車椅子で移動する途中、リハビリ担当の方に、こんなお願いをした。
「僕は、身体が大きい(当時の身長は180cmを越え、体重は80kgぐらいあった)ので、動きが不自由になると、自分の不注意で他人を撒き込んだ事故を起こすかもしれません。松葉杖で歩いているときに転倒し、小さな子どもに怪我を負わせてしまうとか。そういったことが起こらないように、いろいろと指導をお願いします。」
 それまで、車椅子を押してくださっていた担当の方は、不意に足を止めた。それから、車椅子のストッパーをかけてから跪いた。僕の手を取った彼は、こんな言葉を漏らした。
「もしも世界中の人が、そんなふうに考えるようになれば、社会はどれだけ良くなることか。」
 そのとき、僕はこんなふうに考えた。「そうだよな、こんな考え方をする人間は、余りいないよな。」
 けれど、最近の僕はこんなふうに考えている。「こういう話、もっと語っていこう。」と。「物事って、こんなふうに考えることもできるんだよ。」という感じで、軽く喋りたいなと思っている。
 別に自分の考え方を周囲の誰かに押し付ける気はない。けれども、思うんだ。
「足の自由が利かなくなった僕って、不幸」という気持ちに打ちひしがれているよりも、「あ、これができなくなった。じゃぁ折角の機会だ。これを課題にして生きていこう」みたいに考えていられる方が、余程生きていることにメリハリが生まれる。楽しく生きられるのである。
 今の僕は、何よりも「生きていることって、こんなにも楽しい」ということを語り続けていたいのである。そういう自分を、嘲笑したり貶める方々がおられたとしても、全然気にならない。他人の行為に対して、あれこれ邪推してくる輩というのは、僕にはどうでも良い存在なのである。生きていることの歓びを、自分から放棄したい方は勝手にしろと思っている。

 世間的な評価とか、そういったものは僕にはどうでも良い。そんなものは、むしろ鬱陶しいぐらいだ。ただ、「楽しく生きている、変な爺さん」みたいな感じで、へらへらと生きていたい。そんな、合目的性とは無縁な存在で在り続けることで、色眼鏡無しで興味を抱いてくださった方々と関わっていくことができれば、とても嬉しいと思っている。

 描くことで、何かしらの「種子」を残していくことができればという。たった、それだけのことを思っている。
二〇二五年 一月 一日





奥主榮