「自分の身体サイズで思考する――久谷雉『花束』(思潮社)を読む」ヤリタミサコ
久谷雉の第4詩集『花束』は、B6サイズ・ソフトカバーで小ぶりで手に取りやすい。使われている言葉は平易で内容も観念的ではないので、生活空間から詩集の世界にすんなり入りこめる。生身の身体や日常に重なっていながらも、少しだけ想像力の冒険を楽しむことのできる詩集である。飛行機で外国旅行をするのではなく、行ったことのない隣町の公園に行ってワクワクするような感覚に近い。
「品川行」という詩では、
さようなら、
どの色の歯ブラシをあてても
幽霊にはなれない
わたくしのちいさな近代よ
さようなら、
(…)
少女たちよ
わたくしのパンはもう燃えない
燃えることを知らないまま
灰になる未来を約束されている
(…)
春の品川 夏の品川
岸辺で崩れる泥団子から
二人称はこぼれない
草履も
雲も
流れてしまえ
というように、使われている語彙はごく普通の口語なのだが、それらが久谷によって再構成されると、個性的な声が立ち上がってくるから不思議だ。この詩では「わたくしのちいさな近代」をどう捉えるかによって、いろいろな見方ができる。ひとつの読み方としては、人生の挫折に対面せざるを得なくなった「わたくし」が、県境に近く、かつては海があった品川というボーダーへ短い旅をして、そこで自分の折れそうな心を立て直すプロセスと読むことも可能だろう。「さようなら」と別れを告げる対象は「近代」なのだが、これは自分の心の中の他者性としての近代なのかもしれない。青春としての泥団子に別れを告げるような気配も読み取れる。
とは言っても、久谷が書くやさしい言葉は自分の知っている誰かの声のようでもあり、自分自身の中の意識していない自分の声のようでもあり、なじみ深い気がする。書かれている内容も、自分の記憶の断片がそこに埋め込まれているような気持になる。 「白球」というタイトルの短い詩は、短詩の傑作だ。以下全文。
奇蹟を起こせなかったきみは
さびしい顔をしたまま
キッチンの闇に裸体をゆだねた
白球が落ちてきて
バケツの底を打ち鳴らす それだけの
響きで
戦争のすべてを語れてしまいそうなくらい
よく晴れた日のことだった
野球の試合で負けるということは、命をかけてきた本人にとっては全世界を失うほどのダメージだ。奇蹟を祈ってもそれは起きない。キャッチャーミットに収まったストライク、あるいは外野に転がった打球が奇蹟を起してくれなかったのかもしれない。戦争に関わることとしては、神宮球場では出陣学徒壮行会が開催されたし、甲子園の高校野球では8月15日正午に終戦の黙禱のサイレンが鳴る。これらのエピソードから人生と野球(=その人の人生を左右する外的な大きな力)を考えてみると、野球で世界が変わること、戦争で世界が変わることなど、権力の動きに振り回される人生とは、本来的なあるべき姿ではないだろう。運不運も浮き沈みもあるが、人生はその人自身が切り拓き、その過程も結果も自分自身に由来するものだから、試合や戦争のような大きな力に翻弄されるべきではない。とはいえ、自分ではどうにもならない運命にしてやられることもある。敗者である「きみ」は今はどん底にいるけれど、裸体という生命そのものの尊さが大事なのだ。久谷の意図から離れるかもしれないが、そこまで考えを深められる詩だ。
「袖」という詩の抒情も素晴らしい。
かなしみにも
袖がついていればいい
(…)
だれも腕をとおす人のいない
袖がふたつ
ゆれているのをみあげる
(…)
中原中也のように、思わず口ずさみたくなるようなフレーズだ。「かなしみ」という言葉が持つやわらかさと繊細さは詩に使うのが難しいのだが、それをあえて、久谷は「袖」というカバーを掛けてそっと差し出す。
現代詩は難解だとよく言われるが、主観を大胆に拡大するとそうならざるをえない。それに対して久谷は、自分の感覚を優先しながらもそれを取り巻く風景をデフォルメしすぎずないから、日常のわずかな隙間に詩を存在させることができる。詩という言語的な冒険は、日常的な歩幅の、ほんの半歩でも可能なのだ。久谷は読者にそのことを気付かせてくれる。