「蓮の夢」 河野宏子
扇風機は枕元で一晩中回っているはずなのに、何かが風を遮る。
薄目をあけると誰かがしゃがみ込んで顔を覗き込んでいて、
半身寝返りを打つと畳の上にひょろりとした足が見える。
蓮の花の刺青で、誰だかすぐにわかった。
また目を閉じる。なんて夢だろう。
なんや足あるやん、生きてるやん。冗談きついわ。
年上らしく叱ってやろうとしたら、
まだ四十九日経ってへんからね、と、懐かしい声が聞こえた。
顔が見たいのに、目を開けたら全部消えてしまいそうで怖い。
生意気丸出しの声だ、最近は酒のせいでめっきり歯の隙間が増えて優しげな声になっていたから、あの頃のちょりの声を久しぶりに聞いた。
わたしは二十代の後半で詩人を名乗り始めた。
同世代や少し下に面白い仲間が多くて、遅れてやってきた青春のような季節だった。
初めて出会った頃の彼はまだ十七歳で、ほっぺもつやつやで、悪ぶっていても粒の揃った綺麗な歯並びや余裕のある物腰で育ちの良さがわかった。顔は子どものまま手足だけがひょろひょろ伸びてしまったアンバランスな可愛らしさ。ただ、その顔立ちの幼さ以外は全てが大人びていて、行動に迷いがなかった。詩のために生きるとすでに決めていたからだと思う。
仲間のアパートに集まってお酒を飲むことがしばしばあって、酔うとすぐに眠ってしまうわたしをちょりは翌朝「河野さんは起きてる時より寝顔のがかわいい」などと誤解を生みそうなことを言って揶揄うのだった。だから今日もこんな明け方に来たんかい。何やねん。こっちは順調に加齢してて大変なんやで。すっぴん見んといてよ。
初めて15分ほどのステージをした時、それを見ていた彼が言った「河野さんは朗読でお金が取れるよ」の、あのたった一言で調子に乗って二十年も詩人をやってるようなところがある。生粋の京都人だって、正直に褒めてくれることがある。ちょりは詩に関しては嘘を言わないやつだ。褒めてくれる時もそうだったし、悔しい時も。ちょりが何としても勝ちたがっていた東京のポエトリースラムで先んじてわたしが優勝し、明け方の歌舞伎町から鼻の穴膨らませて自慢の電話をした時には、おめでとうと絞り出したあと、とんでもなく悔しがっていた。
もっと悔しがらせたかった。
たくさんいい詩を書いて、観る人がビビるようなライブをして、フェスに出たり詩集が売れてスケジュールがパンパンになったと調子に乗るブスなわたしを見て品がないだとか何だとか言ってもっともっと悔しがってほしかった。出会ってから二十年もあったのに、ちょりが願ってたみたいには、詩をかっこいいものにできてない。詩で食べれてもいない。これから先、どうしようもなく泣きたくなる瞬間がやってくるとしたら、それはちょりにもう自慢ができないと思い知る時だろう。
京都にちょりがいる。わたしにとってそれは無意識の片隅で常にぽつんと灯っている救いだった。でもそれはろうそくみたいに彼自らを削っている灯りだった。過度な飲酒は昔からだったけど、この数年はそのせいでたびたび大きな怪我もしていたようだし、視力が落ちてからは壁やテーブルづたいにそっと歩く姿を見ては、苦しくなった。帰り際の挨拶で背中をさするたび、少しでもわたしのこの暑苦しく溢れる気力を押し付けたい気持ちになっていた。もしもあの時やあの時もっと真剣に怒っていたら、と思う。けれど、愛されたがりのちょりは、みんなに寄ってきてほしくて、そうしていたのかもしれないとも思う。そのおかげでわたしたちはこの二十年余りのあいだちょりと過ごせたのかもしれなくて、でも、やっぱり気持ちのやり場はない。8月9日にXのスペースで、これからやりたいイベントについて話したのが最後になってしまった。明るくて優しい声だった。
珍しくアラームにも気づかずに寝坊をした。慌てて支度をする最中に鏡をみたら四十路の頬にはくっきりとシーツの跡がついていた。ちょり、ここからさらに歳の差が開いていくの、寂しいよ。バロウズみたいに、散々無茶をしながらも世に憚るポエムジジイになるんだって信じてたのに。大昔に勉強会で教えてもらったバロウズ、わたしはまだ一冊も読んでないんだけどさ。