「表現の迷宮 あるいは反復・相似・対比」奥主榮

2024年10月28日

 身体表現に携わる人間は、例えば日常的な動作を極めてゆっくりと見せることで、ふだん人が見落としている所作の細部について受け手に意識させる。手法としては常套手段であるが、その行為によって作品と相対する側に何を惹起したいかという意図は、演じ手や作品ごとに異なる。
 言うまでもないことだけれど、何かを実現可能であるということと、それによって何を表現するかということは、全く別次元の問題である。
 多くの場合、観客の意識を操作することを避ける作家は、作為的な演出を意識的に選ばない。そうした選択は、下世話さを避けて高踏的なものを作りたいといった卑しい意識ではない。誰かの心情をコントロールしてしまうことを、半ば本能的に拒んでしまうのである。それは、ほぼ肉体的なレベルでの拒否感である。
 そうして生み出された作品を、難解で退屈なものと受け止める層も一定数存在する。一方、そうした作品によって浮かび上がるものをエキサイティングなものとして受け止める層も一定数存在する。僕は後者である。

 伊藤高志監督の映画、「遠い声」を見た。冒頭から、「黒いワンピース」というオブジェが象徴的に映し出されていくのを見て、僕の期待は高まった。僕は、こうしたシンボリックなアイコンに、無理に意味を背負わせることを避けている。多くの場合、理屈で解説を付ける以前に、作者の中では「その形でなければならない」という切羽詰まった思いがあるからである。対照的に描かれる、高速度での動きに加工された白い雲の動きについても、僕は意味を求めてはいない。黒と白、人工物と自然物といった対比があるなとだけ受け止める。
 画面、あるいは風景とオブジェによって紡がれる物語に、やがて人間の肉体が乱入する。自室とおぼしき場所で、廃墟の写真集に見入っている、表情を欠いた女性の机の前には幾枚もの写真が飾られている。後のシーンで、夥しい書籍の並ぶ室内が映し出されるが、そこでも彼女は写真集を手に取る。その彼女は、同時に写真を撮影する人間でもある。
 過去の集積としての作品群と、そうした中で新しい何かを画像に記録しようとする女性。
 圧倒的な「古典」郡に囲まれた中での、新しい作家の在りようといった比喩を分析することも可能かもしれない。「無表情」というアイテムも、先述の受け手の感情を導きたくないという意図といった。
 しかし、そうした図式に「遠い声」という映画を、僕は当て嵌めたくない。何となれば僕は、この作品に、「廃墟」への手放しでの愛情を感じる。だからむしろ、何ごとかへの偏愛を基盤とした表現の迷宮であると思えるからである。

 黒い服を着て、ベランダに黒いワンピースを干している女性は、カメラやカラフルなクッション、黒い雨傘を抱えて晴天の下、撮影に向かう。そうして、晴れ渡った空の下で傘を広げる。ちぐはぐなようだけれど、そうした誰かの奇矯さが入り混じった風景というのは、実は日常生活の中に存在している。例えば、道路のカーブミラーに写っている自分の姿にカメラを向ける女性。鏡に写った自分の姿は動きのない構図のように思える。しかし、凸面鏡の上部に、走る自動車の姿が映し出される。日常生活の細部の拡大。僕は、その瞬間どきっとした。これは、意図した効果であろう。数カット後に、女性が不在の同じカーブミラーが映し出される。上部を走る車の影が、再び映る。

 あるいは、自分が撮った写真の画像を、実物の横に並べて見つめるシーン。実物の画像と、そのコピーである画像が並ぶ。相似形が醸し出される。これまた、「作品とは結局は現実の模倣に過ぎない」といった陳腐な言辞をかぶせる必要はない。
 模倣という意味では、路面に映し出された自分の影の顔の部分に、自分の顔写真を置くというシーンが、僕にはとても印象的であった。このイメージは、かなり後になってから、路上に置かれた黒いワンピースに自分の体形を重ねるように自らの影を置いて、手足をワンピースの袖や裾から突き出し、動かすシーンが登場する。現実と模倣という相似形は、どちらが主でありどちらが付随するものであるか(あるいはどちらが現実であり、どちらが非現実か)といった、観念的なものではないのである。そうした確信とは無縁に、常に入れ替わり続けるものでも在りつづけるのである。

 映画の後半、前半に登場した黒い服の女性の相似形かパロディのような、上半身だけ白い服の女性が登場する。彼女もまた、無表情だ。
 前半に登場する女性も、後半に登場する女性も、水たまりの中を白いブーツで走り回る。反復のようでありながら、そうではない。前者には、水たまりの中を走っている楽しさが現れていて、後者はただ水たまりの中でも走っているにすぎない。
 僕が印象的であったのは、どちらの女性のエピソードでも似たエピソードがくり返されたこと。ただ、そこに微妙なずれが存在するのである。
 手のひらを砂の地面に当てるシーンがある。砂を握り、それをこぼしていくだけの描写だ。しかし、カメラのアングルが変わり、遠くからそれぞれが映し出されたときの印象は、全く異なったものである。黒い服の女性の背後には、工事用だかで積み上げられている土砂が写る。白い印象の女性の背後には岩の崖がある。その崖が侵食されてできた砂浜にでも座っていたのであろうか。

 例えば映画を娯楽として、分かりやすさを求める方々も存在する。僕は、そうした方々を否定するほどの傲慢さを持とうと思わない。また、娯楽ではない表現手段としての作家性にこだわる方々も、同等に否定しない。僕は、映画がどのようなものかという前提そのものが食い違っているさまざまな作家の、どこにも組みしようとは思わない。ただ、自分が好きな作品を賛美するだけである。

 二人の、これまた相似形とでも呼びたい女性へと出演者が増えたところから、徐々に物語は複雑な屈折光のような姿を見せてくる。水たまりに写った女性の姿を残したまま、姿を消してしまう現実の女性。しかし、後を追うように水たまりの中の姿も消えていく。
 そうした、人間の存在の危うさ。そうした、個人の存在の不確かさが映画の中で、くり返し描かれる。黒い服の女性は、終盤では影のような実体のなさそうな姿で登場する。

 登場する二人のうちの、どちらか一人の妄想の世界なのか、あるいは確かに存在する他人である二人が葛藤の末に獲得した特別な状況を描いた映画なのか。何が正解なのかは、実は僕にはどうでも良い。
 現実の世界を生きてきた僕にとっての世界認識は、自分の外部の世界にも、内部の世界にも絶対性はなく、外部と内部の接点という、あるいは接し合っている面という部分という、そうした点や面での、とても不確かなものでしかないからである。

 外部と内部の関係性。

 例えば、映画の中でサンプリングされる運動のシンクロニシティと、対比。そんなものに美しさを感じた。
 風力発電機の巨大なプロペラの動きが映し出される。
 黒い傘をくるくる回す、黒い服の女性。その回転は、プロペラと同じ向きである。しかし、視点が反転すれば、回転の向きは逆となる。しかし、反転した動きはプロペラ全体を捉えず、その部分のみによって構成される。目に見えているはずの、何かがずれて食い違っていく。
 ここに、確かなものなど存在しない。

 映像や音声の中には、さまざまな手がかりだけが明示されていく。それらの断片を通して、暗示されているものを、観ている一人ひとりが身勝手に解釈できることの自由さ。僕にとっては、こんなエンタティメントはない。
 たとえば、ひまわり畑の中で埋められていた死体の手足だけを、黒い服の女性が発見するくだり。これまた、それが事実であるかは明確ではない。そのときに撮影された写真(真を写す)のプリントアウトが、そんな手足など無かったと告げている。
 それでも、地面から突き出した足や手から想像される死体の顔があるであろう位置と、少しずれた位置に自分の顔写真を置く、黒い服の女性。

 ちぐはぐであると同時に、収拾のつかない現実の中で、理詰めではない整合性を模索しながら、語り伝えなければならない何かへの強い意思をもって仕上げられた作品。

 そうして浮き彫りにされていく、スクリーンに映し出される映像に向かい合っている、自分自身の「生」の危うさ。自分の存在の確かさを疑うこと。それは、同時に自分はどのようにすれば自らの存在基盤を築き得るか。自分がいったい、外部と内部の世界の狭間で、どのような立地点を見いだしていくのか。

 人間の存在の、頼りなく危うい側面を一編の映画という表現を通して浮き彫りにすることで、その深部に生命への強い肯定感を受けとめた。
 僕は、伊藤高志監督の「遠い声」という作品を、そんな作品として観ていた。
 映像表現のあれこれが、とても魅力的であった。
2024年 10月 15日





奥主榮