「詩のプロって?」奥主榮
なんだか、一生の間に何回もくり返し付き合わされる話題というものが存在しているようだ。
たとえば、「ウルトラマンは、どうして最初からスペシウム光線を使わないのか」といったシロモノである。言ってみれば、テレビ番組のルーティンのお約束ごとなのであるが、この話題を持ち出してくる方は、どうしてだか自分が大発見をしたような勢いで声を大にする。
正直、「その話題はもう、何度目かの付き合いなんだよ」と言いたくなるのだが。
僕にとっては、そうした飽きあきしている話題の一つに、「詩のプロ」に関するものがある。
これについて語り始める方々の論旨には、一定のパターンがある。プロと呼べるのは、、それによって収入を得ているのかという基準を、あたかも絶対的なものであるかのように持ち出してくるのである。次にはこう口にする。その基準を満たしている詩人は、日本では(先日他界された)谷川俊太郎さんだけである。これだけでもツッコミどころ満載である。
ついでに書けば、こうした話題を始めてから、どこやらで聞きかじった知識で「どこそこの出版社はあぶないらしい」とかのたまうと、いかにも事情通に見えて、その場でのステイタスを得られるらしい。
こういう退屈な事態に直面すると、何なんだろうなと、そう思ってしまう。
日本の小説家で、それなりに名を知られた方々でも、原稿料の収入だけで生活されている方々は少ない。副業的な仕事として、カルチャー・スクールでの文章講座とか、そうした仕事で糊口をしのいでいるのではなかろうか。というか、江戸時代に遡り、松尾芭蕉の活動なんざぁどうなのであろう。あちこちに寄宿してまわる、たかり同然の行為を、なんだか偉そうに取り繕って、結局は強請りと大差ないのではなかったろうか。俺は偉いんだから、面倒をみろとか、どれだけジャイアンなのであろう。
僕は、率直に書いてしまえば、金銭授与という点にだけ目を向けて、「プロ」とかいう話題をされている方々には、なんだか「楽して金を設けたい。その手段として詩を利用したい」みたいな、下品さと卑しさを感じてしまうのである。作品を売るという行為には、自作を商品として世に出す複数の方々が関わることとなる。収入を得られるか否かという視点のみに着目して「プロ」と見做すのであれば、当然売買行為に関連する関係者の利益も保証するということになる。そこに目を向けないで、「詩では食えない」とかのたまうのであれば、発表媒体に関わる編集者や営業関係者といった方々の働きを、余りにも軽視していることになる。それこそ、プロ意識と無縁の傲慢な態度であろう。
正確な文言は覚えていないのであるが、ある詩人の著作の後書きに、詩を書くということと、仕上げるということは異なる行為だといったことが述べられていた。
作品という、作者にとっても支持者にとってもかけがえのない存在を、きちんと受け手の前に(冷淡な言い方ではあるが)、納品可能な状態にした製品として、きちんとパッケージングして提供する作業。その為の検品をくり返す作業。そうした行為が、プロとしての仕事なのではなかろうか。世の中には「本気神話」みたいなものが未だにまかり通っていて、単なる戯言でも真情がこもっていれば許容されると勘違いされたりするのであるが、いや、それこそ本気の勘違いである。そんな神話に振り回されてしまえば、ただ自分では良いことをやっているつもりで、すべるだけである。
二〇二五年 五月 六日