「極めて私的な辻潤についての文章」奥主榮
大正時代に、「日本少年」という雑誌があった。児童向けの、啓蒙的な月刊誌で、昭和三四年(一九五九年)生まれの僕は、子どもの頃にこの雑誌を一冊だけ目にしている。家に、関東大震災の特集号だけが残されていたのである。親が、なんだか記念品的な感情で、処分せずに残しておいたらしい。関東大震災を受けての諸外国での対応が印象的であった。「歌舞音曲の禁止」というのが、結構あったのである。それは、この時代の矜持の一つであったのだろう。それぞれの国家の、一人ひとりの国民には無縁な存在であるアジアの一国家での災害の報を知り、享楽に耽ることを戒める。
けれどもそれは、禁令を出した国々での個々人の生活への干渉という要素も含んでいて、今ではむしろ、反発を生むものではなかろうか。
話が脱線してしまった。大正時代に売れていた児童向け雑誌(おそらく、児童向け雑誌を買い与えることができる家というのは、裕福な家であったろう)に「日本少年」という雑誌があり、その誌名をアルバム・タイトルにした歌手が、かつて存在した。
デビュー当時のカテゴライズでは、「フォーク・シンガー」とされている、あがた森魚である。一九七一年の全日本フォークジャンボリーで世に出て、アニメーターにして漫画家である林静一の作品タイトルを借りた「赤色エレジー」という曲をヒットさせる。まだ、マルチ・メディアという言葉がなかった時代に、表現手段の越境を試みたアーティストでもあった。三面鏡のようなレコード・ジャケットのメジャーでのデビュー・アルバム「乙女の儚夢」には、林静一の「大道芸人」という漫画などが引用された、後の時代であればヴィジュアル・ムックと呼ばれるような、そんな歌詞カードが付された。
あがたは、キングベルウッド・レーベルからメジャー・デビューし、後に別レーベルに移籍して、そこで「日本少年」という二枚組のアルバムを出す。これは当然、大正時代の少年雑誌の名前を踏まえた、コンセプト・アルバムであった。完成度は、とても高い。(セッションに参加したデビュー前の矢野顕子が、このアルバムに魅了され、その結果、自分のファースト・アルバムを「日本少女」としたがったという逸話もある。最終的に「JAPANESE GIRL」となったが。)
あがたのこの「日本少年」というアルバムに、「函館ハーバーセンチメント」という曲がある。歌詞の内容は、物語的である。
男二人と女一人。フェリーニの映画「突然炎のごとく」のような設定である。(あがた自身は、「冒険者たち」という映画を念頭に置いていたことを書き記していたが、僕はこの作品は未見である。ただ、後の多くの映画作品などに影響を与えたという話は耳目にしたことがある。) そういえば、内田百閒の「サラサーテの盤」を初めとして、いくつかの作品をコラージュしながら、原作者名の表記を行わなかった田中陽造の脚本になる作品「ツィゴイネルワイゼン」(鈴木清順監督)の中にも、男二人と女一人の不安定さを穿つセリフがあった。
あがたが謳いあげるのは、切ない物語である。語り手と先輩と、その先輩の彼女。つるんで歩き回る青春時代。しかし、ある日、先輩とその彼女は心中を遂げてしまう。そうした記述の中に、ふっと「辻潤のうたふ/ふもれすくに」という一節が登場する。
これが、僕と辻潤を出合わさせるきっかけとなった。歌を聴いたときには辻潤のことは知らなかった。現在のようにスマートフォンやパソコンで、知らない固有名詞をすぐに検索できる時代でもなかった。何となく気になりながら、数年が過ぎた。
ある日、電車に乗って都心の方に出て、少し大きな書店に行って何か面白い本はないかと物色していると、オリオン出版という、初めて目にする出版社の「辻潤著作集」という本が数冊並んでいた。「辻潤って、この本の作者だったのか」そう思いながら、全巻そろっていない中で、興味があった二冊を購入したのを覚えている。
二
一度正体が分かると、それを手掛かりにいろいろと調べられた。辻と伊藤野枝のこと、さらに大杉榮とのこと。関東大震災で大杉とともに伊藤野枝が殺されたこと。(考えてみれば、大杉と伊藤の死に関しては、あがたの歌を聴く以前にも、小説などで何度か読んだことがあったはずである。そうすると、僕は三人の中で辻のことだけ知らなかったことになる。大杉と伊藤が虐殺された件についてのみ記憶に残っていたのか、辻との関係については触れていない文章にのみ出合っていたのか、記憶は不鮮明である。) あがた森魚の歌に出てくる「ふもれすく」は、辻がかつての妻である伊藤野枝と大杉榮に捧げた追悼文の題名である。僕は、あがた森魚というフィルターを通して、最初に辻潤の文章と出合ったことになる。
ドヴォルザークの曲名を引用したこの小文は、二人の訃報に触れた直後に書かれた文章ではない。確か、しばらく時をおいて発表された文章である。執筆から出版まで、ある程度の時間的な落差があるとはいえ、明らかに辻はすぐには追悼文を書くことができなかった。それは、まっとうな生活を拒否し、最終的には生活破綻者としての餓死という、ある意味での徹底的な世間にそぐわないものとしての生き方を貫く。それほどの動機は、何処から来たのであろうかと、若かった僕は考えさせられた。
「ふもれすく」は、文中のある部分までは非常に冷静に書かれている。が、途中からトーンが一変する。我を忘れたような感情の奔流が溢れかえる。かけがえのない存在の、非業の死に触れた憤怒が溢れかえる。(しかも、直截に伊藤と大杉の二人への思いを迸らせれば、それもまた周囲から責められる時代である。) 辻の文体の変化を、言葉巧みな「技法」と解釈する視座もあり得るだろうと思う。でも、僕は「ふもれすく」で辻が思わず漏らした感傷は、通常はシニカルな辻が抑えきれずに綴ったものであると思っている。
辻の残した文章の一つに、「一滴の水」というのがある。
顕微鏡の視界の中で、貶め合い、殺し合い、奪い合う生命たち。その像を、「一滴の水の中のこと」と言い放つ視点。十代の頃の僕は、そうした辻の記述に魅了された。けれども、辻のそんな態度に伊藤野枝は徐々に馴染めなくなる。
日本最初の公害被害者の生まれた足尾。そこで鉱毒処理の為に生活空間を「廃村」とされた谷中村の一人ひとり。伊藤は、大杉とともにそうした場を訪れる。逼迫した事態に遭遇している方々に向き合った上で、伊藤野枝は辻の下を去り、大杉と生活をともにするようになる。野枝の残したこの経緯を語る一文は、「ふもれすく」よりも遥かに切ない。極めて理性的なのである。感傷的であることを拒むことによって、自我をもった個人が「許せないこと」を活写している。しかも、正邪ではなく、「個人」がどのような立場を屹立しえるかを、女性というだけで選挙権すら与えられなかった人々がおられた。
三
辻の生き方は面白く、実は結構な数の評伝が書かれている。破滅的とも言える晩年の生活にスポットを当てたものも多い。(伊藤野枝の死は、やはりショックであったらしく、晩年の彼の生活は荒れ果てたものであった。) そうした中でも、出色の一冊は、山本夏彦という保守系のエッセイストの手になる「夢想庵物語」である。
山本は、辻潤と伊藤野枝の間の子、辻まことと親交があった。また、辻潤の知己であった松林夢想庵の姿も身近に見ていて、そうした体験をこの本の中に書き記している。世俗的な肩書きや権威から零れ落ちることで、逆に何ものにも支配されずに生きた姿を描き出す。夢想庵が辻潤を評して、ステルネルにたぶらかされたと揶揄したことなども記録する。(ステルネルは、辻潤が心酔し、翻訳した「唯一者とその所有」の著者。) ある意味、表現者は全て、先達の表現にたぶらかされているのかもしれない。若い頃に薫陶を受けたジロドゥ全集刊行を妄想した武林夢想庵の、流行というか、時代の趨勢を読めない感性も容赦なく描き出していく。昭和の初め、ともにモダンボーイであった山本夏彦、辻まことの間の恋のさや当てなどについても触れられている。第三者による客観的ではない記述が魅力的な一冊である。山本は、文章も上手い。ただ、その多くの著作の内容は無残なものである。
例えば、辛口のエッセイ集として売り出されている本の中で、戦後の日本の最大の誤りは女性に選挙権を与えたことであると、平然とのたまう。保守に良くある、凡庸で退屈な「挑発的」と勘違いしてへらへらと書き綴る軽薄さそのものでしかない。そうした視点は、大正デモクラシーの名残のようにも思えるモダンボーイと無縁に見えるかもしれない。しかし、案外高等遊民的な立場でもあったモボたちの素の姿は、こんなものであったのかもしれない。
ご自身が選んだ立場というものがどのようなものであるか。辻潤にせよ、辻まことにせよ、大杉や伊藤によせ、理解していたのだろうと僕は思っている。
山本の本は、あくまでもそうした群像の周囲で浮遊していた、そんな場所からの感傷に過ぎないとも思っている。
話を辻に戻そう。
四
辻は、1944年、敗戦の前年に餓死している。
そんな死に方もまた、世俗的な価値を捨てた生き方にふさわしいのかも知れない。若い頃、徹底した生き方というものに憧れていた僕は、還暦を二回り以上も過ぎ、よぼよぼの姿になりながらも、まだ生きている。
自分が薫陶を受けた作家たちの享年を、遥かに超えながら、まだ毎日を過ごしている。
2024年 4月 17日