「過剰さということについて(映画「ユーリ・ノルシュテイン 文学と戦争を語る」に関して)」奥主榮
近所の映画館で、「ユーリ・ノルシュテイン 文学と戦争を語る」という一作を見た。ロシアのアニメーション作家、ユーリ・ノルシュテインが、ネット動画でインタビューに答えるという内容の動画である。ほぼ全編、画面はパソコンを介したノルシュテインの発言だけが続く。画面構成の作家性などを尊重される方々からは、映画として成立していないのではないかという疑義を投げかけられてもしょうがない。しかし、九〇分にも及ぶ夥しい言葉の群は、観ている側の人間を圧倒し、様々なことを考える契機ともなる。
優れた作家が、しばしば過剰な存在となることに、改めて思い至った。
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さほどの映画ファンでも、アニメーションファンでもなかった僕は、ノルシュテイン作品に一九九〇年代になるまで触れることはなかった。ただし、遡る一九八〇年頃に、雑誌でこんな内容の記事を読んだことがある。書き手の方のお名前は失念した。その頃のアニメ関連の記事を掲載していた雑誌の中で、ある意味さまざまな問題提起をしていた誌面は、今回の映画の上映館Morcの経営母体である、ふゅーじょんぷろだくとから発刊されていたものかもしれない。
記事の書き手が、宮崎駿監督のもとを訪れたとき、ノルシュテイン監督の「話の話」を観た感動を語る。それに対し、宮崎監督は、「ソ連(当時)の子どもたちは、ああした作品を見たがっているのであろうか」といった感想を口にされたと、そんな内容であった。予定調和的な作品が苦手であった僕は、「多くの子には拒否された作品でも、好きになる子どもはいるけれどな」と、そう思った。
宮﨑監督の映画では、あくまでも最大公約数的な理解者を念頭に置かれる。そのために、例えば初期の「パンダコパンダ」では、現在ではジェンダーの観点からも批判を受けそうな家族の構成員の立場を類型化した描写が行われている。
さて、そうした雑誌掲載のエッセイの内容が、ノルシュテインに届いていたのかは、僕は知らない。
ただ、今回のインタビュー映画の冒頭で、ノルシュテインが宮﨑作品について言及しているシーンは、とても興味深かった。ノルシュテインもまた、宮﨑が口にした作家性の異なりを十分に理解している。それぞれの創作において、どのような表現を選んでいくかという点で大きな違いがありながら、お互いに敬意を払い合う二人の作家の姿が、四十年前の記憶とともに僕の脳裏に刻み込まれていた。
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インタビューの中で、こんな発言があった。まだ一度見ただけの映画の、うろ覚えの引用である。
「ゴッホの絵を所有していると語る人は、芸術を理解していない。ゴッホの絵を前に自分を語る人が芸術を理解している人だ。」
僕自身は、芸術という言葉は好きではない。自分の書いている詩や散文は、芸能だと思っている。(その域に達しているかは別として。) その上で、上記の発言にはとても共感できるのである。
絵画が好きで、あちこちのギャラリーにふらっと入ることがある。作家さんが在廊しているときには、お礼の気持ちをこめて感想を伝えることにしている。そうしたとき、ギャラリー・ストーカーにならないように気を使っている。作家さんが女性であるときに、個人情報を聞き出そうとしてきたりする輩のことである。結局のところ、何かの作品に触れたときに、それによって自分の中に呼び起されるものと向かい合うか、作品ではなく作家の方に興味を持つかという違いなのだと思う。
作品を観る限り、とても複雑な内面を持っていることが感じとれる作家さんに対して、相手が女性であるというだけで気を引きたがる無神経な言葉を投げつけている方を目にすると、とても辛い気持ちになる。
映画の中で、ゴッホの絵が引用されるシーンがある。そのときに出た絵画の題名が、「ジャガイモを食べる人々」であったのが、とても嬉しかった。この作品のタイトルは、一般的には「馬鈴薯を食べる人々」と表記されることが多い。でも、僕の中では「ジャガイモを食べる人々」だという記憶があるのだ。
僕の物心がつくかつかないかの頃に、親の経営していた会社が倒産した。かなり貧しい食生活を送っていた。ある晩、ジャガイモばかりの夕食を食べているときに、姉が口にした。「なんか、ゴッホの絵みたい」。まだ小学校低学年だった僕は、意味が分からなかった。「ゴッホって、何?」。 そう問いかけた。姉は自室に、古本屋で手に入れてきたらしいゴッホの画集を見せてくれた。
その中には、暗い部屋の中で食事をしている一家が描かれていた。そのとき、なんだか学校なんかで絵を描くときには明るいものや楽しそうなものが褒められるのだけれど、こんな暗い絵を描いても好いのか、と思った。「馬鈴薯を食べる人々」というタイトルの、最初の三文字は読めなかった。家族の誰かが、ジャガイモのことだと教えてくれた。
念のためにネットで検索してみたら、今では「ジャガイモを食べる人々」でちゃんと検索できる。というか、こちらの呼称の方が一般的になっているようだ。昔、美術の試験で付けられたバツは一体何だったのだろう。(学校教師には嫌われていたので、何かと減点されることの多い子どもであった。)
3
僕は、ロシアの文化にそれほど造詣は深くない。ただ、ロシア語やロシア文学を学んでいる方々が、文化の総体としてのロシアに強い興味を抱いていることを、これまでに垣間見る機会はあった。欧米の言語や文学を学ぶ方々に比して、ロシア、中国の言語や文学を学ぶ方々は文化全体への興味がとても強いと感じている。おそらく、背景にあるものの圧倒的な分厚さに魅了されるのであろうと思っている。(ただし、専攻した分野に関わらず、厳しい教授の指導を受けた方々には、それを不満とせず、学ぶことの深層に触れることを選ぶ方々も、多々おられる。)
後半、ノルシュテインがロシアの作家について語っていくくだりも、非常に興味深かった。ゴーゴリについてかなり長く語るのだけれど、ゴーゴリという作家そのものが、一筋縄ではいかないことは、僕も知っている。それこそ、ロシア文化の深層にまで理解がなければ、正確に読み解くことはできないらしい。ロシアの作家について、次々と触れていく中で、ドストエフスキーについては、かなり後回しになっている。
ドストエフスキーの作品は、引用されると意味が変質してしまう。
そうした言葉が語られたとき、僕の中で何かが腑に落ちた。たしかに、気が利いた警句のように目にしていた語句が、実はドストエフスキーの引用だと知ったとき、原典での言葉が含むものと、切り取られただけの、(あたかもスクラップブックに集められた断片のような)本来の意味を剥ぎ取られた文字列との差に、愕然としたことがあった。
そうした指摘を行うノルシュテイン監督に関して、思慮の末の言葉が、断片化され、消費されることで失うもの。そうしたことにも意識的な創作者なのであろうなと、そう思った。
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この映画の公開に際して、ロシアによるウクライナ侵攻という観点からの批判も目にした。ノルシュテインのウクライナ侵攻に対する意見を是とできないという観点からの意見である。この点に関しての、私見を最後にまとめておく。
何かの現象を二元論的に解釈してしまうことは、とても怖いことである。二つの立場の間に無数に存在するグラデーションの存在を無視することになってしまう。それは、対立する二極の間に存在する圧倒的な方々の立場を否定することにもつながる。この映画の中でノルシュテインが語っているのは、戦争に関わっている当事者国家の一国民として、真摯に考え抜かれた意見である。ロシア擁護の発言と見誤ってはならない。
何に組しているかいないかという二者択一的な発想は、相手を殲滅するかしないかという発想につながりかねないものだと、僕は思っている。
ロシアによるウクライナ侵攻に関して、思い出すことがある。昨年であったか、アルフォンス・ミュシャの展覧会が八王子の夢美術館で開催された。この美術館は、とても優れた学芸員の方がおられるらしく、僕が装飾的な作家と思っていたミュシャが、生涯を通じて何を実現していったかを理解させてくれた展覧会であった。パリでの、装飾的なポスター制作や広告絵画の時代から、故国であるチェコに戻り連作「スラヴ叙事詩」をまとめるまでの経緯を分かりやすく展示している。この頃に描かれた、民族衣装を身にまとった少女像は、装飾的に描かれた女性像よりもかえって力強い美しさに満ちている。さらに、晩年、台頭してきたナチスドイツにより祖国が蹂躙されつつあることに苦悩したことも語られる。今までに見た中で、最も見ごたえのあるミュシャ展であった。
そうした流れの中で、民族愛的な視点から、ロシア革命の成就を賛美した絵画も展示された。しかし、そこには非常に残念な注釈が添えられていた。
ウクライナ侵攻の中で、ロシアを賛美する絵画を展示したことに対する謝辞であった。とても辛い思いを味わった。
どうして作品と向かい合うのではなく、予め準備した先入観とも色眼鏡を通して作品を見ないとならないのであろうか。
二〇二四年 六月 二〇日