「雨は、神さまのおっぱい」荒木田慧
母が死ぬところを見たかった。
訪問看護師のタムラさんは深い心をもつひとで、死の瞬間を受けとめるのがもし辛ければ、そこから目を逸らすことさえあなたは許されているのですよと私に教えてくれた。でも私が1年ちょっとのあいだ母のおむつを換えたのは、まさにその瞬間をこそ見るためだった。
夏の終わりに母は死んだ。乳がんだった。
最後のさいごのひと息を、ほっとつき終えるそのところを私は見た。
母が死んだら旅をしたいと私は思っていた。
「外国は危ないよお、気をつけなよお」細くなった声を揺らせて、そう母は心配した。あなたはその頃もうこの世にはいないのだ、だから心配することはないと私が答えると、ベッドの上の母はふと黙った。
私は旅が嫌いだ。旅という言葉は大げさで、必要以上に意味ありげだから嫌いだ。行き先や帰る日は決めずに、ただ意味も目当ても約束もなく世界をぶらぶらしたかった。言葉の通じないどこか遠いところで、すごろくのコマをもてあそびたいだけだった。座標の移動に意味などない。
死後の片づけをしているうちに、年を越して3月になった。頭がふわふわしていた。だから地に足を着けようと思って、新宿駅前で路上生活者の友だちと一緒に寝起きした。
イサムが初めて私の前に現れた夜、私は新宿西口の小田急百貨店前に座っていた。
「何やってるの」
絶え間ない通行人の流れを横切り、腰を屈めてイサムは私に笑いかけた。
『あれ、お前か、まったく相変わらずだなあ。それで、今日は何やってるの?』
そんな親しげな声だった。
私はフルートを吹いていた。自分も笛を吹くのだと言って、イサムは私の敷いていたブルーシートの左側に腰を下ろした。
「神さまは、お母さんなんだよ」
子どものように屈託のない笑顔でイサムは言った。
母の遺灰をおさめたペンダントを胸に下げた私は、そうやってイサムと出会った。
これからヒップホップダンスのレッスンがあるのだと言ってイサムは立ち去った。
「神は母である」
数年前、絶望の向こう側へ突き抜けたとき、突如そういう直観をイサムは得たという。まさかそんなはずは、と世界の神話や歴史、象徴主義を研究するうち、そのことを裏付ける証拠に次々行き当たり、自分の直観を確信した。神とは本来、母であった。「神は父である」これは人類史における大きな虚偽で、この嘘の台頭が世界を不幸にしていると。
旅に出るつもりだがお前も一緒に来るかと私が聞くと、「行く」とイサムは答えた。
世界を見て歩き、自分の直観を証明したいと言った。
イサムの両親は葛飾区で中華料理屋をやっている。イサムはお母さんのレジからタバコ代をくすね、出前の手伝いをサボっては図書館へ行き、神話や考古学の研究をしていた。ヒップホップダンスを習っていたのも、身体儀礼を知るためだったらしい。だから今までの生活から抜け出すのは簡単だった。ヒップホップダンスをやめて、ラーメンの出前をサボって、自転車ではなく飛行機に乗りさえすればよかった。レジからタバコ代をくすねて、図書館ではなくそのまま世界へ行ってしまえばよかった。
18日後に私はイサムと結婚した。
届けの本籍地は新宿西口にして、証人はホームレスのイトウさんと、古本屋のおじさんに頼んだ。「僕の日本の苗字はひいおばあちゃんの苗字で、だからうちは母系なのだ」とイサムは言った。私の苗字は別れた前夫からもらったものだったから、私はイサムの苗字になった。
イサムのひいおばあちゃんは中国残留孤児だった。開拓団の一員として、家族と共に満州へ渡った。日本が戦争に負けたとき、彼女はたぶん10代だった。お父さんとお母さんは中国人に殴り殺された。そのさまを彼女は見た。7人きょうだいの長女だったから、小さな妹弟たちを連れて中国大陸を逃げまわった。そのあいだにもひどい乱暴を受けた。きょうだいは次々と死んでゆき、結局はひとりになった。日本人である彼女を家族として受け入れたのが、イサムのひいおじいちゃんの一族だった。イサムが5歳のころ、中国残留孤児の帰化制度をつかって、家族は日本へ渡り、日本人となった。ひいおばあちゃんは今年の春、私とイサムが出会う1ヶ月前まで生きていた。最後は認知症で、病院で死んだ。
イサムの上には姉がいて、イサムは2人目の子どもだった。一人っ子政策時代の中国では、イサムは非合法の子どもだった。3歳のころ中国で、イサムは誘拐された。オークション会場にいた親戚がイサムに気づいて、おかげで家へ帰ることができた。
中国では「日本人だから」と、日本では「中国人だから」と、イサムはいじめられた。だから喧嘩が強くなった。でもそんないじめはぬるい、卑怯だと私は思う。お前がいじめられるのはお前が中国人だからじゃなくて日本人だからでもなくて、お前がお前だからだよ。そう私はイサムにとどめを刺してやりたい。そうでなければやりきれない。
5月に私は妊娠した。母の子であることをやめたいと私は思っていた。子であることをやめるためには、自分が母になるしかないと思っていた。だからこれで子をやめられるのかもしれないと私は思った。しかし9週目で流れた。痛かったが悲しくはなかった。私は子を生まず、母にならず、依然として母の子のままだった。いくばくかの母の遺産が私の口座へ振り込まれた。そろそろ旅に出てもいいはずだった。
7月の下旬、私とイサムは台湾へ渡った。
いま、台中市でこれを書いている。古く怪しい5階建てのアパート、その屋上にある部屋を、4週間5800元(2万6千円)で借りた。アパートの目の前には立派な寺があり、金色の巨大な仏像がデンと座っている。ガラクタだらけのこの屋上から、隣家の屋上のハト小屋越しに、でっぷりと肥えた仏像の後ろ頭が見える。
雨のない昼下がりに街へ出る。ぐずつく太陽。熟れかけたマンゴーのようにぬるぬると吹く風。八角とガソリンの匂い。軒先の鳥籠。見慣れないみどりの葉。食堂の店先に並んだテーブルやスクーターをよけながら、古書店まで歩く。
もし自分の母の遺産を手に入れたらその金でお前なら何をするか、と私はイサムに訊ねた。
「ソープランドへ行きたい」とイサムは答えた。
アフリカまで行こう、と私は思う。
(続く)