「T-theaterのこと 第二部 活動前期(4)」奥主榮
四 宣伝ということ ~ 作家性ということ
余り記憶が確かではないのだが、大正時代だったかに東京の本郷にあった建物に「二笑亭」というのがある。それなりの資産家が自分の望みどおりの家を建てようとしたもので、現存していない。建物の持ち主は、禁治産者とされ、死後に二笑亭は解体された。
例えば、入り口に建物のひし形の枠組みが重ねられる。まるで、家に入ろうとする誰をも転ばせようとするかのようである。来客のための帽子掛けは、とても手が届かない高さに設置されている。板壁の節穴には魚眼レンズが仕込まれている。周囲を拒みたいという強い気持ちと、真っ当に世間様と関わらないとならないという強迫観念とのせめぎ合いの中で生まれた建築ではなかったかという分析もある。
表現者というものの中には、これと似た矛盾が存在しているのではないかなと思うことがある。僕が詩の朗読を始めたと聞いたとき、二十歳ごろに知り合ったある方は驚いたように言った。「そんなにシャイなのに、人前で朗読なんてできるの?」 僕の表現活動というのは、僕の素の姿と相反するものなのかもしれない。
T-theaterの広告をするとき、初期には「自分みたいなものがこんなことをしていて良いのであろうか」という不安があった。その結果、日付も会場も明記されていないフライヤー(チラシ)を作ってしまい、参加者からも受け取った方からも叱られたことがある。僕は、とんでもない主催者である。
少し、各公演の宣伝ということについても触れておきたい。
僕は、公演の告知を行うときに、できるだけ「僕はここで、何をやりたいか」を明記するようにした。ただ、熱いメッセージにするのは好みではないので、ぐだぐだと書き散らすのである。まぁ、そうした気持ちばかりが先行して、日付や会場も不記載というのは、チラシを受け取ってくださった方々に対して、不遜で失礼な行為であることは、理解できるようになったのだけれど。
ただ、少なくとも「ただ何となくやってみました」という公演を人の目に晒すのは無礼なことであるという意識はあった。しかし、個人で行う公演ならばいざ知らず、不特定のメンバーが参加自由という集まりでは不適切な方法であったかもしれない。公演に対する僕の思い込みが、かえって参加者の自由を削いでしまうのではないかという不安が常にあった。
少し話題を転じる。
1990年代に僕が宣伝のことを考えていたとき、参考にしたのは当時徳間書店から刊行されていた、アニメ映画の制作会社であるスタジオ・ジブリが、宣伝をどのように行ってきたのかという大判の単行本であった。おそらく、組織として利益を上げるためのグッズとしてまとめられたものなのであろう。作品ごとに、数巻に及ぶ刊行であったと思う。今となっては、詳細なことは覚えていない。ただ、「作品の魅力をどのように知らない人たちに伝えるか」という視点を考えるための参考になった。
今でも強烈な記憶に残っているのは、ジブリの初めてのヒット作となる「となりのトトロ」と「火垂るの墓」の二本立て上映に際しての宣伝戦略についての記述である。この二作品に関しては、公開当時ともに、「忘れ物をとどけにきました」というキャッチ・コピーで宣伝がうたれていた。昭和三十年代の郊外の牧歌的な子どもの世界と、「焼け跡派作家」を自称した野坂昭如の戦争体験に基づく世界。演出もまた、対照的であった。子どもが見たときの視点を大切にしている宮﨑演出、一方で大人が何を子どもに語るべきかを意識した高畑演出。この差については、今回の原稿の後半で詳細に分析する。
さまざまな意味で異なった側面を持った二作品を、同じキャッチ・コピーで括った宣伝戦略。それは、同時上映される二作品を、「君はどちらを選ぶか?」といった比較の対象としないという意思で行われたというものであった。
これは、僕には衝撃であった。複数の作品が同時に公開されるとき、「どちらが」という宣伝(というか、煽り)を行うことは簡単である。しかし、ジブリはそうした手法は避けた。T-theaterの公演では、お客様に配布するアンケートがあり、毎回(舞台表現の常として)「どの作品が良かったか」を記入する欄を設けていた。ただ、それも無心に舞台を見ていたい方々に対して、「選択」という苦行を強いていたのではないかと、今は思っている。ある一つの作品が、たった一人の方から、何ものにも代えがたい価値を見出されることもある。創作物とは、そうしたものではないのであろうか。
僕は、詩の朗読のスラムが嫌いということを何度か表明していて、スラム好きの方々からは煙たがられている。(というか、嫌われているが、それはそれで構わない。) ただ、何だか「勝敗を付ける」とかいう言辞を耳にすると、「ええと、それって、何のため?」という疑問が浮かんできて、「この方は、創作活動というものを、何だか冴えない自分の人生の中で、数少ない花を感じられるもの程度に思っているのかなと、哀しくなってしまう。
例えば、コンペティションに参加する状況もあるような分野の作家さんと話しているときに、詩の朗読にスラムがあるよという話をすると、「それ、何のためにやっているんですか」といった反応をされることがある。当然、「そうでしょうね」という返事が返ることもある。どちらが正しいということではないのであろう。
妻は、僕のスラム嫌いは偏見だと感じていたようで、何度かスラムに誘い、参加した。
比較って、何なんだろうと思う。作品を通して、自分と他の表現者と優劣を競って、一体何が残るのだろうと思っている。
そんなことを、ジブリの宣伝方法から考え始めた。
少し、ジブリのことというか、宮崎駿監督の作品群のことを書いておきたい。理由は二つある。一つは、僕より若い年代で、本当に宮﨑作品を絶対視するような環境で育った方々が多いなと感じることが、これまで何度があったからである。それは、彼らが子どもの頃に疑いもない存在として憧れ、しかし大人になってから作られていく新作に戸惑っているような感想にも触れることでもあった。宮﨑は紛れもなく優れた作家であるが、優れた作家であることは絶対的な人格者であることとは等しくない。このことを検証してみたいこと。
第二には、僕自身がジブリの宣伝戦略について調べながら、集団での制作作業であるアニメーション作りについていろいろと考えることがあったことである。作家としての個人的な創作動機と、集団での創作作業という相反する側面については、T-theaterでの活動を通してもいろいろと考える機会があった。
僕なりの立場から、少しこの監督の作品群についても触れておきたい。
僕は、昭和34年(1959年)生まれである。今でこそ、「ジャパニメーション」などという言葉さえ使われるようになったが、僕が子どもの頃にはテレビで放映されている「鉄腕アトム」や「鉄人28号」を、アニメーションと呼ぶ人はいなかった。「テレビ漫画」と呼ばれ、質が悪く粗製乱造の低俗なものと、世間一般では思われていた。僕の家が真空管式の白黒テレビを買ったのが、東京オリンピックの開催された昭和39年(1964年)、当然オリンピックを観るための購入であった。その頃にはもう、毎週30分枠という、日本独特のスタイルのテレビ漫画が放映されていた。だから、僕はテレビアニメの歴史と一緒に育ってきたような世代である。大人からは低俗なものとされているものに熱中し、僕らが十代の後半になり購買力を得た昭和50年代(1975年代後半から1980年代前半)に、漫画やアニメの評価は急激に高くなる。理由は単純である。「金になる」ということは、世間的な評価を高める十分な理由になるのである。ちなみに、この時期までは「アニメーション」という呼称は、ノーマン・マクラレンに代表されるような、海外の実験的な作品に対して用いられていた。
ただ、僕自身はアニメーションの熱狂的なファンではなかった。マニアというのはしばしば、自分の好きな作品に耽溺する余り、それに対する批判に強力な拒否反応を起こす。それが苦手で、いわゆるマニアの方々とは距離を置いていた。さて、テレビアニメがまだテレビ漫画と呼ばれていた時代、中学一年のときに、テレビで「ルパン三世」の第一シリーズが放映された。乾いた感じの大人びた内容に驚いた。同時に、1960年代後半の政治的な熱狂の時代が終わり、世の中をどこか冷めてシニカルな空気が支配し始めた時代をも反映していた。僕の同級生には、僕と同じく熱狂して見ている子がいたが、視聴率は低迷していたらしい。放送の途中から子どもじみた内容に変更され、がっかりした。機関車が軌道を脱線して走る続ける映像は、漫画映画として魅力的であったが、大人びたものに憧れていた中学一年生には、子ども向け番組への路線変更に思えて物足りないものであった。子どもっぽい内容と感じたのは、宮﨑監督が関与してからである。
ただ、ルパンをあくまでも漂泊者と描いた最終回は、印象的であった。この時点では名前は覚えていないまでも、宮崎監督の作品は、初めて僕の中に印象付けられた。
僕と同年代の人には、宮崎の名前をテレビで放映された「アルプスの少女ハイジ」で覚えた人が多い。ただ、僕は「世界の名作児童図書」など、書籍で読めば良いと思っていたので、見ていなかった。ちなみに、続けて放映された「母を訪ねて三千里」は、元々はイタリアの児童向け啓蒙小説「クオレ」の中で、学校の先生が月に一度聞かせてくれる話の一つとして描かれたものである。「クオレ」は、「愛の学校」という題名でも翻訳された作品で、一人の少年の日記という形で、理想的な子どもの精神形成の過程を描いた作品であり、ある種の倫理観の中では、子どもの「健全」な成長を促す作品として捉えられていた。しかし、十代でデビューしたSF作家新井素子は、「クオレ」の中で学校の先生が語る、難破船の中の少年と少女の物語への嫌悪感を表明している。少年が自己犠牲によって少女の生命を救う行為が「美談」として描かれているのに対して、新井は子どもの頃に読んだ感想として、少女が生涯負い続けていくだろう苦痛を指摘した。「クオレ」はそうした側面を持った児童向け図書であった。後に、その硬直した価値観が、ムソリーニによって提唱されたファシズムを醸成する土壌であったとも指摘されることとなる。
先に述べたように宮﨑のこの時期の作品を、僕はリアルタイムでは見ていない。三十年ぐらい前の回顧上映で初めて見た。その演出は、素晴らしいものであった。
さらに数年後、NHKで「未来少年コナン」が放映されたときに、監督が凄いという噂はおもにSFファンから伝わってきた。ただ僕は、妙に健康明朗な印象の第一回を見て、その後は見るのを止めてしまった。これに関しては、惜しいことをしたと思っている。角川文庫から出ていた原作小説が、それほど面白くなかったこともあった。この時点では当然、僕は原作無視で暴走する作家だなどということは知らなかった。
宮﨑の「ルパン三世 カリオストロの城」(1979年)は、劇場では見なかったが、翌年に公開された手塚治虫の「火の鳥 2772 愛のコスモゾーン」は劇場で観た。当時のマニアの間での評価は、緻密な演出がほどこされている「カリオストロ」を賛美するものが多く、「火の鳥 2772」は、アニメーション作成の技法からも手塚が取り残されているというものであった。その批判は、おそらく正しいものであろう。手塚は、基本的に作家ではあっても、技術者ではなかった。余談となってしまうのだけれど、「火の鳥 2772」が製作される経緯は、こんなものである。
1960年代後半から1970年代にかけて、手塚人気は地に落ちる。しかし1970年代後半にかけて、その人気が復活したとき、一度は中断していた手塚のライフワークであった「火の鳥」が注目を浴びる。東宝から、映画化のオファーが出る。手塚は、過去の歴史を描いている奇数話のエピソードは実写とし、未来を描いている偶数話はアニメとしたいと条件を付ける。1978年に公開された実写に一部アニメ映像を組み込んだ「火の鳥 黎明編」は、テーマ音楽をミッシェル・ルグランが担当し(劇中の音楽担当は深町純)、脚本は谷川俊太郎が執筆、監督は市川昆という万全の布陣での制作であった。鳴り物入りで宣伝された作品だが、凄まじいこけ方をする。漫画でしか成り立たない表現を、そのまま実写化してしまうなど、失笑もののシーンが連発されるのである。
その結果、第二作である「2772」は、原作の第二部「未来編」を全く無視した、完全オリジナル作品となる。ここで原作の展開を離れてしまった「火の鳥」の東宝での続編は、以降作られることはなくなる。(ちなみに、当時の企画として、市川昆監督による、半村良原作の「妖星伝」という企画もあったので、とても残念である。ホドロフスキー監督による、「デューン 砂の惑星」の企画も上がっていた時代である。僕は、オーソン・ウェルズが悪役ハルコンネン男爵を演じる、フランク・ハーバードの原作作品の映画を、ずっと待ち続けていた。この一作については、後年ドキュメンタリー映画を見て、頓挫の経緯を知ることとなる。)
話題が逸れてしまったが、宮崎駿と手塚治虫の確執について思うこともあり、あえて脱線した。この時期から、宮崎駿の名前は、徐々に一般にも知られていくようになる。
手塚の死後、コメントを求められた宮﨑は、激しい手塚批判の文章を綴る。初期作品に出会い、最初は感動したこと。しかし、やがて手塚作品のもたらす感動は散華の思想の賛美ではないかと思うように至ったこと。東映動画の「西遊記」に手塚が参加したとき、悟空のガールフレンドが天竺から帰るのを待たず死んでいたという設定にするように手塚が進言したというエピソードにも触れている。そのときに手塚は、その方が見ている人が感動するからと言い放ったと話が紹介されている。(ただし、手塚が生前に書き残した文章では、これからのアニメには悲劇的な要素も必要になってくると考えていたといった旨が記されている。) さらに、宮﨑は手塚のアニメが所詮は素人が作った、落語の「寝床」のようなものだとも酷評する。(落語の「寝床」は、店の主人が自分の趣味の義太夫を使用人たちに聞かせるというもので、素人芸を無理やり聞かせられる使用人たちの反応を面白おかしく描いたもの。)
例えば、最初のテレビシリーズの「鉄腕アトム」の最終回は、宮崎の批判にあるように散華の思想そのものであり、同時に「殺した方が感動する」という批判にも根拠を与える。また、手塚は毀誉褒貶の多い作家でもあった。
その一つに、手塚の嫉妬深さについてのものがある。どんな新人の作品にも目を通し、ライバルとして敵対視する、といったものである。雑誌の対談の中で、注目を集め始めていた大友克洋の絵を、描こうと思えば簡単に描けると発言したのは、リアルタイムで見ている。
ここでの手塚批判は、あながち見当外れのものでもない。
ただ、作家の内面というのは複雑なものである。「子ども」という要素が入ったときに、手塚はそうした敵愾心を捨てるのである。虫プロが制作していた「W3」というテレビ漫画と同じ時間帯に、円谷プロの番組「ウルトラQ」が放映され、手塚の子がその番組を観ようとしたとき、手塚の妻がお父さんの番組を観るように促したとき、手塚自身は「子どもには好きなものを」とたしなめたという話がある。
手塚の死後、かつて手塚のアシスタントをしていた石坂啓は、宮崎の「風の谷のナウシカ」を観たとき、手塚が撮りたかったような内容のアニメであると直感し、いろいろな雑誌での手塚の発言を調べたという。どこにも「ナウシカ」について触れたものがなく、それだけ悔しかったのかといった話であった。しかし、これは誤りなのである。僕が当時、東京の練馬にある、いわさきちひろ絵本美術館を訪れたとき、たまたま休憩用のソファに置かれていた雑誌(子育て中の母親向けの雑誌で、誌名は忘れた)を手に取って読んでいたら、手塚が子どもに見せると良いであろう作品として「ナウシカ」の名を上げていたのである。ここでも、子どもという要素が絡んだときに、嫉妬心は捨てられている。
さて、その「風の谷のナウシカ」であるが、最初は雑誌連載の漫画として始まっている。当時、もう二十歳を過ぎていた僕は、「アニメブーム」という言葉が使われながら優れたアニメ作家が自作を思うように作れない事実に、実は日本のアニメの状況というのはとても貧しいものではないかと感じたのを覚えている。
これも同じ頃の話なのであるが、当時ソ連のアニメ作家であったユーリ・ノルシュテインの「話の話」が公開され、誰かがとても興奮しながら作品の素晴らしさを宮崎駿に告げたという話を読んだ。そのとき、宮﨑は、ソ連の子どもたちはああいう映画を観たがっているのだろうかといった返答をしたという。書かれていた方は、作品の芸術性といったことに左右されず、まず作品に触れる子どもたちのことを念頭に置く監督の発想を賛美していたが、僕は疑問を感じた。僕は、子どもの頃から「子ども向けに分かりやすく」されたものが苦手であった。最大公約数的に希釈されてしまった作品が苦手だったのである。じっくりと意味を考えなければならなくても、多少の分かりにくさのあるものに触れたかった。
宮﨑が徐々に評価を高めていく時代に、僕はメディアを通して何度か、宮﨑の激しい側面を見聞する。確か昭和が終わったときであったか、あるいは20世紀が終わったときであったか、雑誌で「いまこのときに読むべき漫画」という特集を組んだ。そこで宮﨑は、「漫画なんて読まずに、ちゃんとした書籍を読め」といった回答をしていた。(こういう要約をすると、凄い説教くさい厭なオヤジに見えるが、元発言は必ずしもそうしたものではなかった。) また、テレビで自作の長編が放映されるとき、番組の冒頭だったか最後だったかで映画解説者がセル枚数のことに触れたら、「そんなものは作品の質に関係ない」と一蹴していた。気難しいというか、ややこしい人なのだなと思った。
僕は、作家というのは自分の内部に統合しきれない何ものかを抱え込んでいる場合が多いと思っている。むしろ、融和できない矛盾をどうにかしたいと、作品を生み出し続けているのではないかとさえ考えている。自分でもどうにもならないものと、常に向かい合い続けること。そうした焦燥を伴った無限ループ。宮﨑が批判した手塚の中にも、そうした批判を行った宮﨑自身にも、僕はそうした内面的な軋轢から生まれる歪みを感じるようになっていった。
アニメーションという表現媒体に関して、個人製作の作品以外は集団作業での創作活動となる。何かを描きたいという動機は、あくまでも個人の内部から湧き上がるものである。しかし、集団での作業はそうした個々の意思と相反する部分がある。共通の着地点に向かっていかなければならないという、全体主義的な側面を持っているのである。
虫プロダクション制作の(日本のテレビ漫画の形式を成立させたとされる)「鉄腕アトム」の中に、長くフィルムの失われていた「ミドロが沼」という一話がある。真偽のほどは知らないが、虫プロが、スタジオ・ゼロに外注に出したという噂を目にした。この辺りの経緯に関しては、諸説があるのだが、僕が触れた話では手塚の熱狂的なファンであるトキワ荘の住人を中心に設立されたスタジオ・ゼロのメンバーが、手塚作品への思い入れが強い分、「自分なりのアトム」を登場させてしまい、全編が一貫性のない作画であることに怒った手塚がフィルムを廃棄したというものである。(他にもいろいろな説がある。)
ただ、良かれ悪しかれ参加している個々の作家の個性が、最終的にまとめられる作品に反映されてしまうことはある。石森章太郎(後の石ノ森章太郎)が、試行錯誤の末に子ども向けの漫画の枠には収まりきらないと、刊行されたばかりの「ビッグコミック」に連載した漫画に、「佐武と市捕物控」という作品がある。この作品も、テレビ漫画の作品となった。ただし、大人を対象とした初期の作品として企画された。東映動画、虫プロダクション、スタジオ・ゼロの三社が持ち回りで制作した。
虫プロダクションが担当した回では、明らかに当時虫プロに在籍した真崎守、村野守美らの絵柄が反映されている箇所がある。(ただし、作品全体には不協和音を生じていない。)
集団の作業と、個人の作業。その両輪の間で生じる齟齬。
そうしたことごとくと、個人としての作家はどのように向かい合えば良いのか。
テレビで放映されるアニメや特撮と一緒に育ち、それらが「低俗なもの」から金になるから認知させるべきものと、世間が価値観の掌を返す時代に生きてきた僕は、自分が敬意を抱いた作家を賛美するより、そこからどこへと踏み出していくのかを考えてきた。そんなふうに迷っている時代に、生まれる以前から活躍していた手塚の作品や、成人してからお名前を意識した宮崎の言動は、一つの指針であった。
どうすれば、影響を受けたものから自立して自分の表現を獲得できるのか。T-theaterをやっていた時代の僕は、そうした葛藤に周囲を巻き込んでいただけかもしれない。
ちなみに、アニメ監督の押井守のインタビューであったか、対談であったかの中では、宮崎駿がスタジオ全体を見渡せる位置に自分の椅子を配置し、誰がいつトイレに行くかといったことも把握した上で人事管理をしているという話が出ていた。
そうした話を読むにつけ、僕は宮﨑が何本も教育的と評価される映画を撮るよりも、そうした管理術を披露した方が子ども達の教育の為になるのではないかと考えてしまう。教育というのは、常に目的を伴う。だからこそ、そのスキルが公開されることは、誰かを救う可能性もある。同時に、誰かを支配する可能性もある。
僕は思い出す。「管理」ということが無条件に批判されていた時代に、故橋本治が書いたことを。教育には常に管理という側面が伴う。(交通ルールを知らない幼児を、手放しで大通りに連れて行くことは不可能であろう。) 教育において管理が悪いことのように言われるのは、能力のない人間が管理をすると、とんでもないことになるからという言辞である。
まったくのど素人の僕が、T-theaterという集団の代表だったかになり、宣伝戦略も一所懸命に考えていた中で、僕と一緒に育ってきたような宮﨑のジブリを参考にした。(おそらくは、後に名を上げる鈴木敏夫さんのアイデアが多かったと思っている。)
その頃から、いろいろと考えていたことを、背景を知らない世代の方にも伝えておきたいなと思って、少しまとめました。
ちなみに、宮崎と高畑勲が手がけた最初期の作品の一つである「太陽の王子ホルスの大冒険」は、ある意味旧ソビエト連邦のプロパガンダ映画のような全体主義の賛美のような側面を持っている。
それが、時代背景によるものなのか、作家自身が根本的に抱えた問題であるのかは、僕には判断できない。
良心的に見える創作が、それとうらはらの陥穽と紙一重であることは、創作者として見失ってはならないことだと思っています。今回、連載の流れの中ではスピンオフ的な内容になったのですが、記しておきたいと思います。
2023年 6月 2日