「T-theater reboot project についての覚書」奥主榮

2024年06月24日

 改めて説明しておけば、T-theaterは、僕が1996年から2007年にかけて主催していた、「詩の朗読をメインとした舞台集団」である。四半世紀以上昔の話であり、周囲にはその頃にはまだ生まれていなかった方もおおくなってきた。時代は変わっていくのである。

 この「抒情詩の惑星」では、「T-theaterのこと」という連載の中で、その活動については一度まとめている。1996年の時点ではまだ、「詩の朗読」は広く行われていなかった。(過去に遡れば、1960年代のビートニクスの詩人たち、1970年前後に活動していたオーラル派などの例外はある。) そうした中で、照明、音楽、音響などを作り込んだ演出をして、エンタティメントとして楽しめる詩の朗読の舞台をやってみたいと、僕は思ったのである。この舞台集団は、2007年までの11年間続けた。
 スタート時点で、いくつか決めていたことがあった。思い出せることを書きだしてみる。参加したいという方の申し出を拒まない。(僕は、参加者を選別できるほど尊大な人間ではない。) 参加者へのチケットノルマを課さない。(僕自身が、チケットノルマに苦労した時期があった。ただし、会場のレンタル費を初めとする諸経費を捻出するために、参加費は毎月頂いた。) チケットの値段は、映画館の入場料を目安にする。(高額の入場料を設定することで、興味を持たれた方々の足を遠ざけさせたくなかった。) 一人でも多く方に、詩が描き得る世界の素晴らしさに触れてほしかった。
 また、最も大切な決定事項。もしも僕が企画を進めていくうえで尊大な振る舞いを見せたら、すぐにT-theaterから叩きだすように発足時のメンバーにお願いしたのである。創作に関わっていると、小さな集団の中で持ち上げられて、夜郎自大になった人間の見苦しさを見ることが幾度もあった。そうした列には、けして加わりたくなかった。

 そんな気持ちで始めたT-theaterだったが、活動期間中に詩の朗読の裾野は広がった。そうした百花繚乱の中で、T-theaterもまた一つの仇花だったのかもしれない。詩の朗読が一般化ししていく中で、毎回赤字の公演(赤字分は僕が負担していた)を続けるのを止めた。その後は、ソロ活動とでも言える朗読会を続けている。(最初は「単独朗読会」と言っていたのだが、なんだかカッコつけすぎのような気がして、最近は「ぼっち朗読会」と自称することにした。)

 一人でやる朗読会は、とても楽しかった。ある意味では僕は、「詩の朗読会」を開催したことはない。というのは、毎回テーマを決めて、「何月何日に、こういう趣旨で書いた詩を朗読するので、おいでいただければ幸いです」という姿勢で舞台を披露した。形式ではなく、内容が優先だった。フライヤーはほぼ、モノクロの文字びっしりのシロモノ。愛想など欠片もない。ただ、それでも興味を持ってくださる方々においでいただければ、それで良いと思っていた。
 何かのイベントを主催する人間が、イベントの開催そのものを目的としてしまい、何故そのイベントを行うのかを見失ったら、それは本末転倒というものだと、僕は思っている。僕は、詩の朗読をしながら、詩に何が可能であるかということに挑んでいた気がする。無力な自分が、それでも異議申し立てをしたい社会に対して、どのように闘いたいのかを試みてきたような、そんな気がしている。そうした中で、実は、いつの間にか「ポエトリー・リーディング」と呼ばれるようになっていた世界が、少し苦手になっていた。聴き手のためではなく、自分の為の表現という印象を受けるようになってきたのである。(受けているものに対する、単なる嫉妬心。(笑))

 さて、僕は何やらもやもやしたものを作品としてまとめることにしている。僕は、僕が心の中に抱いているものを結論として受け手に押し付ける気はない。
 「訳の分からないことばっかり言ってやがる」と、級友たちから罵られていた子どもの頃。僕の子ども時代は、そんなふうだった。周囲の子どもがあっさりと下していく結論に、何か違和感をおぼえ、それを説明しようとする。当時はまだ「うざい」という言葉は使われていなかったが、くどくどと話す僕の声は他の子らの不快感を引き立てた。そんな中で、誰にも分かってもらえないと、とても辛い気持ちで過ごしていた日々。そんなときに触れた、二元論では分別できない微妙な感情の狭間を描く歌手や詩人は、僕にとって憧れの対象であった。

 昔のT-theaterを運営していたときには、自分がどうして詩の朗読をしているのかといった、そうしたことには向かい合っていなかった。
 見かけの「理解者」を装って近づいてくるオトナ達に対して、散弾銃を向けたいぐらいの凶悪な気持ちを隠していた十代前後の僕。(黒奥主。) 僕は、齢を経ていかように表現技法を獲得しようが、そうした自分の中の凶暴さを忘れるまいと思っていた。
 僕が、心の中の散弾銃を上手に撃てるようになったのは、僕が臆病だからこそ、「この方には敵意を向けてはならない」相手がいるということを学んだからであった。

 話が脱線してしまった。ただ、僕の創作に対する姿勢というのは、僕の表現活動と分かちがたいもので、どうしてもこうした悪態を書かずにはいられないのである。

 そうした中で、僕の創作姿勢も徐々に変化していった。
 まだ、一冊の詩集も上梓していなかった頃、駅前で募金活動をしている若い方たちを見かけた。僕も参加したことのある、交通遺児の為のヴォランティアの方々であった。もう、バブルはとうの昔にはじけて、辛い生活が続いていた時分である。募金の主旨の中に、「自死者遺児」が加えられているのを見た僕は、愕然とした。
 僕はもう四十代を迎えていた。若いとは言えない年齢に差しかかっていた。生きることに不器用で、経済的には生活にかつかつの人生を生きてきた。でも、まがりなりにも「大人」である僕は、若い方々に対して、どんな社会を残したのであろうか、とそんなことを突きつけられた。そうした中で、2009年に最初の詩集を刊行する。その二年後に東日本大震災が起こる。数日間、表現や創作の無力さについて考え続けた。被災地の方々に向けた詩など、断じて書けはしない。善意を標榜する行為の見苦しさは、僕が嫌悪し続けたものであった。
 そうした困惑を超えて、僕が思い出したのは9・11テロの折のことである。
 テレビの画面にくり返し写しだされる絶望的な状況。大人はそれを「同じ映像」と理解できる。しかし、まだ年端もゆかない子どもは、同じ惨劇がくり返されていると思い込んでしまう。僕には、幼い子と生きている友人が何人もいた。
 「子らの存在を忘れないで」という気持ちがこみ上げた。そして、こんな詩を描いた。



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掌の中で


世界は大きな鍋の中

大人たちの作り出す
大きな騒ぎの中で
怯えた瞳を伏せてしまう子どもたち
世界は君たちを拒んだりしていないから
空にはまだ太陽が輝いているから
だからどうか
差しのべる掌の中で
暖かい毛布に身をくるみ
静かに寝息をたてていておくれ

いつか君も大人になり
父さんや母さんにも
我を失い
君に向けていたいはずの微笑さえも
忘れてしまう
そんな時間があるのだと分かるだろう
けれど それは遠い未来の話
今 君は思い切り我が侭な子どもで良いのだから
むくれた顔をして泣き声をあげて
大人たちに伝えておくれ
大きな掌の中で頭を撫でてもらい
こくんと眠ってしまいたいのだと

世界は大きな鍋の中
何もかもが煮えたぎったままかもしれない
だけれども君たちは
僕たちには見ることのできない
はるかな未来まで生きていくために
今は安らいだ休息に包まれていておくれ
二〇一一年 三月 一四日 奥主 榮
※ 第二詩集「海へ、と。」収録作品。



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 その頃から、僕の詩の描き方は、徐々に変化していった。自分では全く意識していなかったのだけれど。

 ポエトリー・リーディングや、詩の朗読会への参加は減っていった。TASKEさんのように、常にお誘いをくださる方々は別にして、余り詩の関連の場所には行かなくなっていた。「ポエトリー・リーディングの会場は、いつ行っても同じメンツばかり。お客さんの窓口を広げない限り、先行きはあやしい」と二十年以上も言い続けて、窓口を広げられないだけのように感じたからである。

 いや、そもそもオープン・マイクって何だろうと思った。

 西荻窪の、ある場所でのオープン・マイクは、とても刺激的であった。(現在は行われていない。) 本当に、オープン・マイクを必要とされている方々が訪れる場所であった。詩の朗読の場所では、作者が自作の詩を朗読することは、ほぼ前提となっている。しかし、ここでは本当の「解放されたマイク」を求めておられる方々がおられた。それぞれに、自分の辛さやなんとも説明できない現状を語る。そうした中で、僕も自作詩を朗読した。読んだ作品は、自分で書かれたものですかという質問に始まり、いろいろな感想をいただいた。とても嬉しかった。また話題が逸れている気もするが、これは僕の創作活動にとって、とても大切な時期だったのである
 僕は、ここで本名名義の第四詩集の習作「みらいのおとなへ」を朗読した。それに対して寄せられた感想から、徐々に新しい作品が生まれた。僕は、自作の受け手と直接のやり取りをしながら作品を描いていくことができた。

 その後、八王子のギャラリーカフェ、coffee ritmosで出会った作家の方々からも、いろいろな刺激を受けた。作家と作家の間には、どのような上下関係も存在せず、お互いに尊敬し合える。そのことを、何よりも理解して場所であった。そこで出会えた方々に、僕は大きな薫陶を得ている。

 僕の創作活動というのは、そうした経緯を経てきている。いわゆる世間様からの評価は低い。詩に関して、何かの受賞もないし、朗読の舞台にゲストとして呼ばれることもない。(正直、そんな誘いは要らんのだが。負け惜しみに思えるだろうな。)

 なんだか、ある意味では承認願望とか自己顕示欲とは無縁に生きていた気がする。

 いろいろな、方々と出会い、何だかもう舞台はやりたくないなと思って生きてきた。毎回の負債が大きすぎるのである。

 というか、舞台なんてやるものではない。時間と金と手間がかかるだけだ。ろくなことはない。周囲との人間関係はぎくしゃくするし、残るのは後悔ばかりである。長い付き合いとなる方々との関係が、同じステージを夢見ることで、あっけなく破綻していく。けして手を出してはならないシロモノではないのだと、そう思っている。思っているのだ。分かっているのだ。


 どうも、昨年あたりからむずむずし始めている。2023年の初めに、「またやらないんですか?」と、かつての観客の方から聞かれたときには、「もう齢だから」と答えた。「代わりに主催したい人がいれば、アドヴァイスぐらいはしても好いけれど」と言っていたのだけれど、最近どうもいけない。
 やってはならないと思いつつ、やりたいという気持ちになってきたのである。創作活動に対する依存であろうか。莫迦らしい。絶対にやるべきではない。しかし、無謀だと理解しながら、のめりこんでしまうのが創作というものの怖ろしさなのである。

 最初の公演までに、最低でも二年はかかる。
 かつてのT-theaterは、全員が作家の集団であって、マネージメントを出来る人間が、いても周囲の余りの実務能力の無さに呆れて辞めるか、結局誰もいないかという状態であった。よくある、しかし実はとんでもない話である。いろいろな意味で、参加者に迷惑をかけないためにも、制作や広報ができるスタッフを確保しておかないとならない。その為には、舞台集団としてのT-theaterが何をやりたいのかを明確にしておかないとならない。四半世紀以上前の「エンタティメントとしての詩の朗読」などという文言は、何の説得力もない。
 それに伴い、参加者を拒まないという方式も捨てなければならないと思っている。むしろ、「こうした意図で企画をするのだけれど、その上で参加したいと思ったらお願いいたします」と言い切れるようでなければ、スタッフを集めることなど不可能であろう。

 苦しんでいる人間に、安易な励ましの言葉などかけてはならない。けれども、相手と同じ立場になって考え、相手の視点に合わせて語りかける言葉は、相手に届く。そのときに、言葉を発する側が自分の結論を押し付けようとしてはならない。ただ、まっすぐに語りかけた言葉が相手に届けば、それまでに見落としていた何かを考えるきっかけになるかもしれない。それで、何か小さなことを変えられるかもしれない。
 そんなことを、詩の朗読の舞台で実現したいなと考えている。そして、今までの人生の結果、どうしても自分を大切に思えない気持ちになっていた方が、自分を大切だと感じられるようになれば嬉しいなと、身勝手な野望も抱いている。

 今のところ、「理念」しかない、赤字さえ生みかねない。(厭だ!) 正直に書いてしまえば、僕自身が自分に向けて「止めておけ」と言いたいようなていたらくである。

 新生T-theaterは、同じ目標を共有できる方々による組織づくりから始めたい。
2024年 5月 30日





奥主榮