『TEXT BY NO TEXT』(いぬのせなか座叢書5)(橘上+松村翔子+山田亮太 いぬのせなか座発行)についての詩集評 「自走する言葉、複層化する詩」ヤリタミサコ
二〇二三年一月、世界の空気を破るように橘上と山田亮太と劇作家の松村翔子による四冊セットが「いぬのせなか座叢書5」として登場してきた。内訳は、橘の二〇一八年の即興朗読ライブを橘自身が文字化した一冊、山田による反応連動詩一冊、松村による反応戯曲一冊、橘の連動詩一冊である。テキストの準備なしで発音したライブを、橘は記録から文字に落とし込み、山田と松村はその体験を内在化して作品をまとめ、橘自身も別詩を書いた。飛び跳ねる声と言葉を受け止め、時間空間身体の制約を越えて、山田と松村と橘は断続的に続行する心的ライブを取り出しながら作品を作った。感覚の時間はリニアではないので逆戻りも追体験も可能だ。共通するフレーズや連想など冊子同士のコレスポンダンスもあるが、それぞれが独立した四冊である。拙稿では山田と橘を読む。
山田の『XT NOTE』のうちの行分け詩「XT Note」(1~4)は即興ライブに連動し、麦茶の味や水を飲む行為についての橘の言葉を受け取って「human beingなので水を飲みます/これは証明する必要のない事実ですあなたと/水は同じ空間で同じように存在しています」と呼応する。特徴的な表記としては、不規則に出現する大きなフォントの数行がある。詩のタイトルではなく、声の違いを表わしている。「遠い未来に/これがあなたの最後の言葉だと/誰かがたしかめたとき/どんな言葉が書かれているといいと思いますか」と、大きな文字が強い問いとなる。これら四章の間に挟まれた実験的な三つの章は既発表作品であり、次元の違う展開。「記録についてのメモ」は登場人物A,B,Cへの朗読インストラクションとセリフの戯曲風、「ジョン・ケージ・クイズ」はタイトルどおりの短文連続で意図的に順番を破壊した作品、「打鍵のためのレッスン」はチャンスオペレーションの手法で意味を考慮しない記述。全体としては、実験的な三章の冷静さが、行分け詩の人間らしい話し言葉の滋味を深めている。例えば「これを希望と呼んだっていいし/生活と呼んだっていい」というように。
橘は、『NO TEXT DUB』の水を飲むパフォーマンスを記述した「(This is not a)水を飲む男」という作品では言葉と自分自身の感覚の落差を指摘し、「ちょっとずつお前がいらなくなっていく」では社会的役割やラベリングを皮肉る。AI、戦争、正義、認識、安保、憲法、仕事、信用などの話題に触れながら、言語と現実の間に存在する裂け目を注視・接続しようとし、「(初日の麦)茶の味」では「あ、言葉に出したくないんだなそれが僕には心地がいいや」と、言語以前の感覚を尊重する。後日書かれた連動詩集『SUPREME has come』は、縦書き横書き、囲み、黒地に白抜き、はみ出す大小の文字群など常識破りのレイアウトで、一つの形式に収斂されるのを拒否する言葉たちが縦横無尽に跋扈している。だが『NO TEXT DUB』よりも書き文字の詩として意識されていて、特に「租税特別措置法」や「安保」「憲法」をめぐる詩は口語表現には不向きであるから、口語との位相の違いが明確だ。
言葉になる前から感覚は活動し、少し遅れて音や文字の形で外界へ伝わる。言葉以前から以後へ進行する過程でこぼれ落ちるものがある。橘と山田はそれらを意識して表現し、詩を複層化させている。
*いぬのせなか座叢書 https://inunosenakaza.stores.jp/items/63760a6cabc35c4855f3eaff