【特集】甦rebirth福島文芸復興
『甦rebirth福島文芸復興』紹介。
『甦rebirth福島文芸復興』は、2018年7月に創刊された文芸同人誌です。同人の詩と小説とエッセイと絵と写真を掲載しており、これまで5号が出ています。同人は、小説を書くアレクセイ渡辺と詩を書いている究極Q太郎(『抒情詩の惑星』ではアレクセイ・渡辺が『腐日記』、究極Q太郎が詩を発表させて頂いています)が主に声をかけて、渡辺が住む福島市在住のメンバー、究極がスタッフをしていた早稲田あかね(現在は離れています)で声をかけた利用者や西武線沿線にある介護事業所の介護者、それから渡辺と究極が出会った「だめ連」というグループ(今度現代書館よりそのグループの本が出る予定)に関わりかあった人等か主。
アレクセイ渡辺は、だめ連にあった電話ネットワーク(寂しい人たちがつながりあう電話クラブ?)の中心人物でした。この同人誌を創刊する前まで、15年程お互いの間に連絡がなかったのですが、ある日彼から究極のもとに突然連絡が来て、交流が復活しました(電話、メールの頻繁なやりとりが始まった)。その連絡の中身が、小説を書いているが認められないという主旨が多かったので、同人誌を作って発行してそれに掲載すればよい、究極はかつて色んな同人誌に関わっていたので知っているノウハウを活かそう(『甦』編集、印刷担当~手作り感満載)と動くうち、詩を書かなくなって久しい時間が過ぎていた自身に詩が芽生えることがあり、再び発表するようになりました(究極は、詩人カワグチタケシ、小森岳史と詩の朗読会3K朗読会を行っています。それも久しく絶えていたのですが復活しました。次回は10/22(土)に江古田フライングティーポットで開催)。
同人誌のタイトル「甦(よみがえれ)』はそこに拠るひとに様々な苦難を抱えた者が多かったこと、また当時鬱を患っていた自身を浮かばせる意味を乗せて究極がつけたもの。そして福島市の同人たちの願いも込められた「福島(文芸)復興」
次号『甦rebirth 第6号』は、7月下旬~8月上旬に出る予定。
同人誌連絡先は
zyoze1974@gmail.com(アレクセイ渡辺)
同人誌取り扱い店。中野タコシェ。新宿模索舎。新宿IrregularRythmAsylum等。バックナンバーがまだ売られています。ご購読お願いします。
究極Q太郎詩集『蜻蛉(あきづ)の散歩~散歩依存性』500円
七色1st作品集『ゴミ』500円
も売られています。
「福島抒情詩inTOKYO」アレクセイ渡辺
人の持つ世間での了解項などは脆弱なもので、環境が変わるともろに脆弱さを露わにする。
東京に来て二年目であろうか、いきなり、故郷の秀才だった高校時代の女友達から電話がかかってきて、
「私、生きる意味分かった!!」などと電話越しにいきなり言われ、「生きる意味」などとは無縁に生きてきた彼女の変わりようにびっくりしたことを覚えている。
才女だった真奈美は面白味もある女性で一浪してW大学の政経学部に入った。私などは高校時代、真奈美にからかわれる対象としては面白がられたが、男としては相手にもされなかった。才女だった真奈美から突然に電話がかかってきたのにはびっくりした。
私が入学したのはGH大学だったので比較的、真奈美の住んでいた高田馬場からは距離は近かった。
私は人生の世事の経験を積むことに疎かったため、真奈美がどういう関係にとっつかまってしまったのかは、自分にはピンとこなかった。
ただ、自分が高校の頃より好いていた女性だった真奈美から電話がかかってきたことで望外の嬉しさに囚われた私だった。私は薄々、真奈美の声音に何か得体の知れない、いかがわしさにその時、気づいていたのかもしれなかったが、高校時代の片思いの相手だった真奈美に会えるとなれば、私としてはただただ会いたいという気持ちがすすみでて、私は真奈美が聞いて一番うれしがる言葉を探した。
「俺にも......俺にも生きる意味教えてくれないかい?」と私は半分本気で真奈美に受話器越しに口にした。
「いいよ。高田馬場のBIGBOXの前で待ち合わせしない?」真奈美の声音は異様に明るくなった。
次の日、夏の厳しい日差しの中で待っていると、二人の女性を遠くから私は視認した。
淡いブルーのノースリーブのワンピースを着た女性がこちらに手を振った。真奈美だった。高校の制服姿ではなく、立派で端麗な若い女性がそこにいた。もう一人の女性が軽くお辞儀をした。
「お、久々、それにしても、あちいね」と真奈美が言った。
「涼しいところ行こうか?」と真奈美が続けた
そこで、冷房の効いた喫茶店で三人で話すと、やはり「宗教」の勧誘だった。
私が一番悲しかったのは、高校時代には、才気活発であった真奈美が凡庸な「神の話云々と人間が生きている意味云々
を私に向けて生真面目に話はじめたからであった。
私などもイデオロギー的に見て強靭という訳でもない。ひとつ、都の華々しさにあこがれて、華々しいイメージにつられて来た凡庸な男でしかない。
真奈美は熱を入れて、「神と生きる意味云々」の話をした。それが荘重であろうとすればするほど、いかがわしさを増し、キッチュさを否定すればするほどキッチュさを増した。
「それって単なるイデオロギーじゃないかな?」と私はその「神の話」が終わると口にした。二人の若い女性は顔を見合わせて爆笑した。
当時、多分、私は運がよかったのだ、これぐらいの軽い宗教勧誘で済んで。
私は席を立とうとした。
「逃げるの?」と真奈美は言った。
「いやあ、逃げるよ。怖いもの」と私は開き直って言った。
真奈美は暗い顔をした。「危ういものには近寄らない」という日本の民衆の昔からある新しきものへの偏見こそが宗教勧誘において最も手ごわいものだということを真奈美は知っていたみたいだった。真奈美は暗い情念にとらわれた顔をして私に二冊のパンフレットを渡した。もう真奈美も私とは会うこともないだろうことを悟ったのかもしれなかった。そのパンフレットをそそくさと渡す動作には事務的なルーティンというべき単調さと退屈さが感じられた。
私が席を立つと
「あんた絶対ダメになる。私にはわかる。あんた絶対ダメになる」と真奈美は言い放った
私は高田馬場の喫茶店を後にした。呆然としながら私は歩いた。後ろを振り返り、真奈美の元に戻ったら自分は終わりだと私は思った。明治通りを横切ろうとすると、突如として夏の雷鳴と驟雨が私を襲った。私は傘を持ってこなかった。ので、あっという間にびしょ濡れになった。私はバッグから真奈美からもらった二冊のパンフレットを神田川に投げ捨て、くれてやった。長い急な坂道を上り、目白台の私のアパートに私は戻ると、私は泣きながら、笑った。
精神の病の発症から大学を退学した三日後のことでもあった。
私の精神の病の直接の発端となったライフイベントの失敗について書く。しかし、記憶はあまりに今もって私には生々しいので三人称で書くことにする。
時に上京前の一年程前の福島県立美術館・図書館脇の公園での話になる。同じ高校の三年生であった。片方は十七歳の女性。片方は十八歳の男性であった。
公園の雨宿りしたあずま屋で二人は激しい驟雨を眺めていた。
男のほうが
「激しい雨だね」と言った。女の方からは何の返答もなかった。というより女は沈黙で返した。
「来年はさあ、私、多分T大文一にいると思う」激しい雨音と沈黙からの反転した激しい野心の発露があった。
「そうか、官僚にでもなるの?」と男のほうが言った。
「そう、めちゃくちゃ偉くなりたい」女が子供のように答えた。
「ここで会うの、今日で最後ね」と女が言った。
「なんで?」と男が訊いた。
「だって、私、偉くなるんだもん。あなたと私とでは釣り合わないでしょ」
女は我が身を男に寄せると歌を歌った。男は女の右肩に自分の右手を回し、いつものように女の右肩を抱いた。女は突発的に歌いだした。
「志をはたして
いつの日にか帰らん
山は青きふるさと
水は清きふるさと」
歌い終えると、女は男の右手を邪険にして払った。何か男は自分が熟練した道化師にでもなった気がした。いや、そうであった。
雨が止んだ。幾重にも重なる蝉の声が際立った。男は失恋をしたことを悟った。
「ぬるい暑さだね。あちい」と女は言った。若い男はショックのため沈黙した。
「他人の人生を笑うな」七色
ある人は常人を演じた
ある人はアルコールを過剰に取った
ある人は手首を切り裂き
ある人は薬に助けを求めた
どん底のどん底のどん底は底が見えない
でも生きている今の1秒を
1秒を生き続けている
人の人生は計りしれない
体験出来ない
それでも私達は巡り会い
同じ店の空間を埋めるように集う
話す
生きる
苦しんで苦しんでもがいてもがいて
助けてと誰もが言ったはず
私は笑った
自分の人生と今の1秒を笑った
空間を埋めながら
声も出さずに笑った
幻の「娘」よ アローン彗星
娘は言う
「パパとママはどうしてケッコン(結婚)したの?」
幻の妻は
「パパとママは愛し合っているからよ」と言う
「あいしあうって?」
「チーちゃんが大きくなればわかるわよ」
「パパのプロポーズのことばは?」
「ママと一緒に住もうと言ってくれたの」
「いいなあ、私もパパみたいなプロポーズされたい」
「うふふふふ、きっと言ってもらえるわよ」
「本当?」
「本当よ」と妻は顔を赤らめて言った。もう会うこともない娘よ。
(令和3年12月18日)
「イノシカチョウ」緑山アリ
「花札の絵柄ってへんでしょ。あれ、動物も鳥もじっさいに見たことない貧乏なお公家さんが、アルバイトで想像に頼って描いたから、あんな不思議な世界観になったんだよ」
そんなことを、わたしの昔の恋人が言っていた。そのひととの関係は捉えどころがなく、故にわたしの感情はつねに定まらず、別れてからも、処理できない恨みのようなものが燻っていた。
そのひとが、長患いの果てに亡くなったらしい。彼の彼女、というか、彼が生前に親しくしていた女性から、形見分けにと花札が送られてきた。
とっくに他人になっているはずだった。そんなひとの遺品を持っているのは気味が悪いので、その女性に返そうと思った。花札が入っていた封筒の差出人を見ると、彼女の家の住所は、なんと、わたしの家からそう遠からぬ場所だった。ネットで検索すると、バスに乗って十五分ぐらいで到着する距離だった。わたしは花札を送り付けてきたことに、うっすらと腹が立っていたので、直に返しに行くことにした。
バスがバス停で止まると、私は降り口の段々を踏んで下車した。すぐにバスは走り去った。その辺りはススキが鬱蒼と茂っていて、歩道に覆いかぶさるように迫っていた。
ガサガサと音がして、ススキを掻き分けて、白い作務衣を着た、坊主頭のこどもが現れた。
「来たな」
こどもは、大人の男のような太い声色で言い放った。
「おまえ、こっちへ来い」
お寺の小坊主のようなこどもは、横柄な態度で、ススキの藪の中へ入って行った。しかたなく、わたしもあとへ続いた。
ススキはわたしの身長よりも背が高く、前後左右を塞いでいた。ささくれた葉が肌を刺し、目に入りそうになるのを避けながら小坊主について行った。
途中、茶色いごわついた毛皮の大きな動物が、地面に横たわっていた。フーゴーと鼻息をたてていて、横腹が膨らんだりへこんだりしていた。
「そいつはいつも寝てるんだ。起こさないように、上手く避けろ」
小坊主に命令された。
「起きるとひとを襲うの?」
と、訊くと、
「そいつが目を覚ますと、この世界が消失してしまうかもしれない。ここは、どんな変化もあってはならないのだ」
と、小坊主は顎で動物を示した。
ススキの藪を抜け出ると、開けた場所が待っていた。牡丹や杜若が咲き、満開の桜や梅花の香りに、蛾のような蝶が縺れ合って遊んでいた。上空には巨大な、透けるように白い満月が昇り、その前を遮って雁が隊列をなして飛んでいた。
――動物を見たこともないお公家さんが、想像で描いたんだよ。花札の世界は、脳の中の風景なんだよ。
亡くなった元恋人の声が、耳の奥に蘇った。あの人は体中に管をつけられて、薬で眠らされながら、自由を失った状態で、こんな空想をして余命を過ごしていたのだろうか。
「この先は、おまえ一人で行くんだ。もう少し行くと大きな川が流れている。そこへ向かえ」
また小坊主が、地響きのような声で指図した。
わたしは、七夕の笹のように、たくさんの短冊が下がっている松林をくぐって進んだ。松林が途切れると、石ころだらけの河原に出た。目前の広大な川は、水の動きが見て取れないほどのったりとした水を湛えていた。
いましも、岸辺から小舟が離れていこうとしていた。その木っ端でできたような小舟には、昔の恋人である、先日亡くなった男が乗っていた。
「来ると思ってた。もう、おれは終わったよ。お迎えがきた」
生前と同じ、飄々とした風情で、「おれはあんたのことは何でもわかるよ、おれのことが心配だよね?」と言わんばかりの微笑を浮かべていた。
「おれの分まで、頑張って長生きするんだよ。じゃあ、元気で」
遠ざかって行く舟から、彼は芝居がかった説教口調で、大きな声をあげた。
なぜ、あのひとは、つねに自分は絶対的に愛されているという前提でいるのだろう。そんなふうだから、わたしとあのひとは、心が擦れ違うことが多かった。かつての不満が、むらむらと記憶の底から立ち上がってきた。
「あんたの、そういうところだよ!」
わたしは石を拾って、男に投げつけた。次から次へと投げた。小石は届いているのかいないのか、彼は鷹揚に手を振っていた。彼を乗せた木の小舟は、靄が凝ったように朧げに見える、対岸へと流れて行くのだろう。
わたしをこんなところに残して、清々としたようすで片手を振る男に、わたしは力を込めて花札を箱ごと投げた。箱は空中で開き、猪や鹿や蝶の四十八枚の札がばらばらになった。
絵札は、頼りなくひるがえりながら、はらりはらりと川面に散った。
わたしはバスの座席に座っていた。バスの振動に合わせて、体が小刻みに揺れていた。
すぐには現実に馴染めず、ぼうっとして窓の外を眺めていた。しばらくして、来たほうとは反対の、帰りの方向のバスに乗っているらしいことがわかってきた。
鞄の中を探ってみたが、花札は無くなっていた。割り切れない気分で、わたしは深く息を吸って、吐いた。
あのひと、いつも悪気はないんだよね。わかってる。わたしたちが恋人同士だったころも、わたしはいつも、最後はあのひとを笑って許していた。
可笑しさが、ちいさな気泡のように胸の底から湧き上がってきた。口元がむずむずして、懐かしさに、ほんのすこし唇が緩んだ。
「見知らぬ女の子」究極Q太郎
見知らぬ女の子を
公園で見かけた。
白熊のような大きな犬が
水飲み場で水を飲むようすを見ていた。
いつの間にかならんで歩いている
黄色い学童帽の下から
顔を向けずに声をかけてきた。
「オジサンすみません。今何時になりますか?」
ぼくは腕時計をはめてないけど
さっき公園の時計を見ておいたので
「一時頃だよ」と答えた。
すると女の子は
「もうすぐ四時だ」と言った。
「えっ。まだ一時だよ」と言うと
指を折りながら「一、二、三、もうすぐ四時だ」と言う。
「いつも四時までに帰っているんです。
それまでに帰らないといけないんです」。
「こっから登ってこ」
そう言うと女の子は、
道の脇の階段を
すたすた、あがっていってしまった。
・・・
五時二十分になると
おもてで遊ぶ子供たちに
帰りなさい、って呼び掛けるんだね。
スピーカーが、町中にふれまわるように響いて、いやおうもなく聞かされるんだ。
なんか「お笑い」がつく社会主義みたいだね。
遠くの町から来たひとを
案内したらそう言う。
...そのひとはモスクワにひと月だけいたこともあるらしい。
この駅の反対側にある団地は
かつて輝かしい未来が託された
いわば現在のウォーターフロントのように造られた都市なんだよ。
その頃この町は最先端で
最初のファミレスを生み出しさえした。
ところがそうした団地は
社会主義国家にあるものとそっくりだった...
って、この町のそばの
同じような団地出身の社会学者が書いているものを読んだよ。
そのとき、なんだか納得してしまった。
ぼくらは、左右とか新旧なんかの区別をいっても
それはどれだけ判然と分かつことができるのか。
冷戦時代の資本主義と社会主義はミラーイメージだった。
二つの体制は
結局やり方はちがえど
同じものを目指していたのだし
そうして現在がどんなに進んでいこうが
旧態依然はけしてなくなりはしない。
人間がいっかなかわりばえがしないせいさ。
その人と一緒に行った遊園地は
往時の華やかなりし面影はない。
昭和のノスタルジーに訴えた
一発逆転、新アトラクション戦略も断末魔の前の
あがきのようにしか見えなかった。
廃墟マニアの趣向のひとには
受けるかもしれない。
嫌いじゃないよ。
・・・
夏が来るたび年々暑さが厳しくなっている。
地球温暖化が起きていると皆が口を揃えていうわりに
すぐそこにある異変に
何故ひとはこうものんびりかまえているのかな。
このあいだ、府中本町駅のホームで
同世代のガテン系のひとが
不意にふらついて危なかったので
思わず声をかけたところ
「今日暑かったから」と言った。
屋外にいる時間が長ければ長いほど
それを肌で感じ、身がこたえる。
逃込む場所がいままだ保障されているひとはいいが
それがないひとや野生の生き物らには厳しい。
私は四年前
主に酒への依存をやめるため散歩を始めた。
(依存先をアルコールから散歩へとシフト/からだに負担にならないようにトボトボと歩くのが良)
段々時間と距離を伸ばして、
散歩三昧していた時は週三日、一日十時間。
仕事先であった訪問看護師さんに
「痩せすぎ!」と言われてから少し控えめに。
散歩をしている間
からだにはいくつも異変が訪れた。
疲れなくなった。
暑さ寒さなどの感覚が少し麻痺しているようにも思う。
また、世界の見え方がちがう
(いつしか世界がclayアニメのように見えるように。この話を数年前にとあるバーでしたところ、話した若いひとは大学時代、ずうっと視界の中にある風景が額縁つきで見えていたということだった/驚き桃の木山椒の木!)
また長時間屋外にいるということは
他人より気候を
肌で感じる時間が長く
自然現象を観察する機会が多いということでもある。
―温暖化のせいで台風が大型化している。メキシコ湾でハリケーンが、インド洋ではサイクロンが...
'18年9月に日本へ暴風雨をもたらした巨大台風21号。
その直後、東京中を歩いてみると
いたるところになぎ倒された欅の大木が横たわっていた。
そのころ神奈川の反町から中華街の先
みなとの見える丘公園まで散歩をしたことがある。
(11月それはカルロス・ゴーン社長が逮捕された日だった/その日の散歩の途中、たまたま横浜にある日産本社ビルのギャラリーに立ち寄っていた/そして翌日のニュースをみて偶然の一致に驚いた/ところで、このルートは、距離がある上に途中幾つか丘を越える起伏があって良い、海へと向かって歩いていくのがポイントのコース/自分の好きな散歩コースを作っておくと長時間もいける散歩ドー)
のぼった丘の上で
おそらくなぎ倒されていた樹の新しい切り株を幾つも見かけた。
またその頃、柴又に遊びにいき、
矢切の渡しの舟に乗ると
(葛飾側から乗った客は私だけだった。船頭のお兄さんに「往復」と告げると何事か言うので聞こえた通り「ご立派?」(片道じゃなくて偉いという意味かと思ったが)と聞き返すと「'乗りっぱ'だよ!」と突っ慳貪。
けれども対岸につくとわらわらと客達が現れて、それに気をよくしたのやら、いつもより遠回り行くぞという出血大サービス。彼が漕ぐ間に口から飛び出す地元特ダネあれやこれや)
岸にならぶ柳が軒並み倒れたのは巨大台風のせいだと聞いた。
...その年の11月、このような散歩エピソードを披露しながら、高円寺のスペースで散歩について語る講演会をしたりも。題して『世界が梃子でも動かないなら歩こう!』
あるく年もとい翌る年の巨大台風19号は仕事の日。
電車が止まってしまったのと、川が氾濫する恐れがあったため
仕事途中で切り上げて
帰らせてもらったのだが
...三駅分の道を暴風雨の中歩いて帰った...
途中橋を渡った川が
まだ台風が到来する前だというのに
濁流が岸の縁へと迫っており
氾濫スレスレとなっていた。
その時はぎりぎり持ったが...
・・・
危機が迫ったからと言って
たいがいのひとはあわせて変わるよな
そんな億劫なことはしないんだよ。
守ろうとすると思う、既にそれが手にないならば
あるふりをするんじゃないかな。
旧社会主義諸国では、
かつての生活へのノスタルジーが盛んだと聞いたよ。
昭和を懐かしむのも同じだよ。
「もうすぐ四時」なのにね。