なにかが変わっていたかもしれない■追悼   安孫子正浩

2024年09月12日

何度か会っているとは思うが、記憶に残っているのは二度だけである。
一度は、ミキさんが『詩学』の連載を終了されたとき。連載終了を記念してのイベントだったか、
「東京で『詩学』に関係した詩人を集めてリーディングライブをやります。来ませんか」
と誘われ、当時連載陣のひとりとして名を連ねていたわたしも参加した。そのライブにchoriさんも来られていたのだ。ミキさんが連載なさっていたのが2004年から06年まで。choriさんは05年に「第一回詩学新人賞」で最優秀詩人賞を受賞されていた(クロラさんと二人同時受賞だった)。
会場のライブハウスが狭く窮屈でやや混乱した様相だったことや、わたしは翌朝から大阪で仕事があって早々に辞さなければならなかったこともあって、その場で話を交わすことはなかった。数日後にchoriさんがネット上で、詩に関しては素人でしかなくリーディングの作法など何一つ身に付けていない、その夜のわたしの読みっぷりとテキストの内容について褒めてくださってるのを見て嬉しく思った。人によっては、何を上から目線で、と思われるかもしれないが、根は単純なわたしは素直に喜んだ。
それ以前から、寺西さんか平居さんの界隈でに決まっているのだが、わたしはchoriさんの名前を知っていた。名前だけでなくその出自についても噂で聞き知っていたが、疑問だったのは、「なぜそのことを多くの人が知っているのだろう」ということだった。
いまでこそ検索をかければ普通に出てくる情報だが、当時は「そのことは内密」のように語られながらもなぜかみんなが知っていて、そのことが腑に落ちなかった。

その後、『詩学』を舞台にchoriさんが詩人として活躍され、誌上で発表する作品がシーンを変えて行く、…ということはなかった。『詩学』が07年の秋に休刊、詩学社が廃業してしまうからである。
新人賞を与えながら、その発表の場を用意することができなかった出版社の罪は重い。
それでひとつの未来が変わってしまった。賞を与えた側にも思惑や期待や、ともに盛り上げて行こうという気概と理想があったことは想像に難くない。それでも、…という無念さは残る。何かが変わっていたかもしれないのに。

choriさんご自身が詩学新人賞のことを心のなかでどう思われていたか知る由もないが、彼はその後も活躍を続けられ、創作の場から遠ざかったわたしの耳にもちょくちょく名前は届いてきた。
一度だけ、京都のVOX hallで彼が企画するイベントにいそいそと行ったことがある。確か22年の夏か秋で、「その場でお題を二題引き、その二つを組み込んだ詩でも小説でもラップでも何でもいいので披露する」というオープンマイクだった。参加費を払えば誰でも即興の作品を披露する権利が得られる、というライブだ。
会場に行くとまだお客もなく、choriさんも来られていなかった。わたしはいちばん客で、誰もいない会場にぽつんとひとりでいた。何人かいるスタッフはオーダーをすれば気易く対応してくれるが、内輪の話で盛り上がっている。
そこへ次のお客さんがやって来た。入り口でけっして安くはない入場料を払いながら、「自分はこういうところへ来るのは初めてだがステージに立たず聴くだけでもいいのか」と訊ねている。「いいです、いいです」と答えるスタッフ。見ると、体躯のよい若い男の人だった。「自分は大学生で、リーディングに興味がある」、後学のために見学したい、ということらしく、イカつくゴツい見た目と折り目正しい印象の男の人は、わたしから少し離れた位置に背筋を伸ばして座った。
「chori、昨夜から体調よくないらしいぞ」というスタッフのいい交わす声が聞こえてきたのはその頃だ。数名の客兼参加者がそれからやってくるも、みな常連らしく、わたしとその若い男だけがただ無言で静かに開演を待つ。スタッフも主宰者が現れるのを待っている。
結局この夜、主宰者は体調思わしくない様子で少し遅れて現れた。始まると、ややルーズなノリで仲間にむけた冗談をちょいちょい挟みながら、開演を告げた。その様子を見て、若い男が席を立ち、入り口にいたスタッフに、多分礼だと思うのだが、短く告げて去って行った。

この夜のことを思い出す度に、たまたまだったのだ、とわたしはその彼の去っていく大きな背中にむけて告げたくなる。たまたま調子が悪かったのだ、と。それはもちろん本心ではない。それでも、もしきみが20年前に彼に会っていればきっと魅了されることもあった筈なんだ、とわたしはいいたくなる。高い参加費を払ったお客に、数分のMCの態度を見られて帰られてしまう。そんな人ではなかったのだ、と。
残念なことはもうひとつあった。途中で、「即興で小説は無理なんで、なしで」とchoriさんがぽつりといった。そのときばかりは、おいおい、とわたしは思い、「いや、やりますよ」といってステージに立ち、その場で捲し立てるように、…とはさすがにいかず、覚束ない口ぶりで、それでも引き当てたお題を組み込んだ物語を頭のなかで考えながら必死に口にしていった。後方へ下がりかけていたchoriさんは客席で一度振り返り、未知の生物を見るような空っぽの目で、語り始めたわたしを見た。あんな目で他人様から見られたことはそれまで一度もなく、だからこそ印象に強く残っている。だがその目が意味しているものまではわたしには判らなかった。告知で「やる」といっていた「小説」を急遽「なし」にされたことに理不尽だとは思っていた。

このときのことを思い出すとやはりもうひとつ、『詩学』がなくならずにいまも刊行されていればどうだったのか、とも思わずにはいられない。ご本人はもしかすれば、「いいんだ。そんなことは。仕方ないだろ」とニヒルにカッコよく笑っておっしゃるかもしれない。だが心の底まではわたしには読めないし、それは、誰にも判らない。どれほど判った気になりたい人がいたとしても、過去の出来事に結びつくことまでは、判りようがない。







安孫子正浩