みきくんこんばんは 二 すなけちゃん(snake)
みきくんこんばんは。1
久しぶりの日本での数か月は楽しかったです。
八月になったので再びイギリスに向かいました。
姉のところにまずは遊びに行くのでスコットランドの空港から入ったのですが、八月なのに気温は五度でした。
夏服で出発したので凍え死ぬかと思いました。
靴のカレッジに通う新しい生活の始まりはそれはそれは悲惨でした。
家が見つからないのです。
家が見つからないと子供の学区がわからないので小学校も見つかりません。
不動産屋を回り疲れて、とうとうカレッジの先生に助けを求めました。
すると、部屋貸ししてくれる知り合いがいるかもしれないと。
ただ、そこには先に部屋貸ししている別の人もいて、その人は子供が嫌いらしいのです。
空いている部屋は二部屋あります。
二部屋とも借りるのでどうかと交渉したところ家主が快諾し、先住の人は残念ながら大嫌いな子供とシェア暮らしになってしまいました。
結局この先住のお兄さんはうちの子と結構仲良しになったのですが。
靴の学校には日本人もいたし、パキスタン人やシェットランド人がいました。
いわゆる靴職人の養成所みたいなところで、卒業と同時にマスターギルドという制靴試験もありました。
毎朝小学校へ子供を連れて行き、そこから十分くらいのカレッジに行き、四時半に学校が終わります。
子供は放課後クラブに入れていたので、そこに迎えに行きます。
この頃は子供はもう日本語が話せなくなっていました。
卒業の頃リクルートがありました。
ナイキジャーマニーから仕事のオファーがありました。
とても行きたかったのですが、子供は一年したら日本に帰ると思っていたのでとても楽しみにしていて、日本に帰りたいと言いました。
残念でしたが子供が一番ですから、日本に帰ることにしました。
長い長い暗いスコットランドイギリス時代が終わりました。
あの時は毎日カレンダーに×印をつけて残り日数を数えて悲しく暮らしていましたが、思い出として考えると楽しい毎日に思えます。
不思議なものです。
帰国して広島で靴の仕事なんてありません。
せっかくたくさん勉強してきたのですが、百貨店で靴の販売員になりました。
靴の販売員をしながら、香港のシューズエキシビジョンという大きな展示会や上海の展示会へ何回か参加しました。
商業関係者しか入れないので、偽物の名刺を作り小売りバイヤーのふりをして行きました。
その時は想像もしなかったのですが、その数年後には商用で展示会の出店を何度もして、受賞したり受賞スピーチをしたり新聞に載ったりまでしたのです。
偽名刺で忍び込んでいた部外者だった時からは考えられません。
そんな嬉しい状況になるまでにも、悲惨なことがたくさんありました。
まずは展示会での中国語の威力に驚き英語だけではダメだと心底思いました。
そこで短期の大連留学をすることにしました。
四月から七月上旬まで、数字すら中国語で数えれるかどうかという状態で大連に行きました。
遼寧師範大学というところでホテルのような学生寮でした。
毎日昼までが授業で午後はずっと単語を覚えていました。
一日に三十個づつおぼえたので、十日で三百語。
一か月で九百語、三か月で二千七百語覚えました。
これだけ覚えても使ったり聞いたりが圧倒的に少ないのでなかなか言語として使うのは簡単ではないです。
それから日本へ戻って少しして、再び留学しました。
今度は広東省です。
靴といえば広東省で、最初からこの場所が目当てだったのですが、治安が非常に悪く中国語が全くできないと近寄るのも怖い場所です。
誘拐されてお腹の中だけなくなった子供の遺体が捨ててあったとか、拳銃一丁いくらとか、人間の処分いくらだとか、恐ろしい話ばかりです。
でもここは靴の産地なのです。
広東省に初めて着いたのは十一月で、日本はすでに寒くセーターを着て行きました。
のちに聞いた話では、留学生たちからセーター着てきてこの人どうしちゃったのかと思われていたそうです。
広東省は沖縄よりもう少し緯度が南で暖かいところです。
葉っぱは大きく街路樹はマンゴーです。
マンゴーはぼとぼと大量に落ちてきて腐って道端がドロドロになります。
始めて広東省の広州に来たその日は雨でした。
飛行機から見えた着陸した空港は大雨でした。
私は傘を持っていませんでした。
不安と暗い天気で暗い気持ちのまま空港からタクシーに乗り、広東工業大学へ向かいました。
タクシーは正門までしか入れないので、スーツケースを持って広い大学を雨に濡れながら留学生オフィスを探しました。
その日のうちに案内された留学生寮は監獄のような鉄格子でとコンクリートの粗末な八階建てエレベーター無しの古いビルでした。
無機質な部屋で、掃除をするとゴキブリのバラバラ死体がたくさんありました。
広東省はねずみとハエと蚊とゴキブリの宝庫です。
スコットランドのリスとウサギとハリネズミと白鳥の宝庫とはすごい違いです。
空気は悪く夕方は不気味な紫色の空になり、晴れの日は黄色い空でした。
マンホールは蓋が無いことや割れていることもありますからいつも地面を見て歩かないといけません。
私の選んだ広東工業大学の留学生の80%はアフリカ人です。
ですから寮もアフリカ人だらけです。
到着してすぐの買い出しにたくさん助けてもらいました。
荷物も持ってくれてお昼ご飯もごちそうしてくれました。
劣悪な環境の中、寮では英語なので中国語はちっとも上達しません。
そして毎日夕方から朝までパーティばかりですぐに学校もろくろく行かなくなりました。
多くのアフリカ人の他に、日本人の交換留学生が二人、韓国人、カザフスタン、キルギスタン、アゼルバイジャン、シンガポール、イエメン、スペイン、ベトナム、タイ、ロシア、という具合で、日本人と韓国人以外は皆良い家柄の金持ちのお子さんのようでした。
イスラム教が多いわりに、誰もお祈りしてなかったしお酒もがぶがぶ飲んでいました。
広東省ではこんなに楽しい毎日があるのかというパーティ三昧で、寮の劣悪さも全く気にならなくなりました。
毎日毎日遊んでいたら留学期間はあっという間に終わり、またまた日本へ帰る時期になってしまいました。
この時の皆さんとはその後もずっと交流が続き連絡をとっています。
この寮が常にああいう状態だったのではなく、あの頃の数年が偶然そんな状態だっただけでした。
あの後再び訪れたことがありますが、すっかり人が入れ替わりおとなしく静かな寮になっていました。
安定しない生活を続けている間に子供は大きくなり十二歳になりました。
小学六年生は忙しいので、私もその一年は広島にいました。
近所の会社に入り非常にまじめに社会人生活を送りました。
その一方で、中学からは寮で生活してもらうお願いを子供に聞いてもらい来年からは本気で靴の仕事をいよいよ始めようと決めていました。
中学に入ってすぐはいろいろとありそうなので夏まで待ちました。
そしてその夏に再び広東工業大学に戻ったのです。
三十三歳になってしまっていました。
広東に到着して同時に仕事を探して右往左往しました。
アシックスからは要らないと言われました。
スピーカーメーカーからはOKをもらい、バッグのメーカーからもOKをもらいました。
結局靴の仕事が見つからないままお金が減っていき、路上で売っている野菜を買って部屋で煮て食べ続けました。
日本に戻るしかないかとりあえずバッグを作るか、悩んでバッグを作ることにしました。
その時、ある人から電話がかかってきました。
靴のメーカーがぜひ興味があると言っている、と。
即日そのオフィスへ行き、自分の制作した図面やパターンを見てもらい面接で説得したところ、雇ってくれると言うのです。
すぐさまバッグの会社へ丁寧に断りの連絡をしました。
そしてその翌週から靴の仕事を始めることになったのです。
何度も夢ではないかと思った瞬間でした。
これだけ奇跡のような幸運のような出会いだったのに、結局その会社で今日まで続けることができなかったのですが。
二年半でしたが一生懸命やりました。
夜遅く四時までいたことも何度もあります。
覚えることが多くて周りについていけなくて余裕がなく楽しみながら働くことはありませんでした。
そして事務所の移転とともに私は広東省に残るためその会社を辞めました。
会社は中国から撤退してしまいました。
さて、書いていて悲しくなってきたので仕事は置いておき、楽しい広東省を紹介したいです。
広東人が暮らし広東語を話します。
時間は適当で約束があって無いようなもので絶対に信じてはいけません。
道路では360度どこから何が来るかわかりません。
フォークリフトも走るし全裸の人も道路を歩いています。
道端で大便をしているおばさんを見ましたが、普通の人というわけではないようです。
恐らく障がいがあるようですがOKみたいです。
バスの運転手は「いけねー、今日は野菜買って帰ってこいって母ちゃんに言われてたよ」と叫んで路肩にバスを止めて野菜を買います。
「ちょっと飯食ってくる」と言って路肩にバスを止めて帰ってきませんし、しかも長い。
急ブレーキもあるし、つり革くらいでは肩を脱臼してしまいますから、両手で握り棒をつかみます。
バスの追突二回以外にタクシー、乗用車、と四回の事故を経験しました。
タクシーの時は運転手と後部座席の間の鉄格子で顔を切り流血しました。
食材も豊かです。
割と私は何でも食べれるのでこれはあまり影響ありませんでした。
蝉みたいな虫はエビ味でとてもおいしいです。
エビは食べれるけど虫はダメという理由がわかりません。
エビが陸の生き物だったら食べれないということになります。
広東省、車の事故は毎日で常に事故ばかり、車の炎上もあり、車どころか高いところから人が落ちてきたこともありました。
人が落ちるとものすごく大きな音がします。
落ちた人は不思議と落ちた姿勢で硬直していました。
少し手が挙がっていても重力でその手が落ちたりしないです。
喧嘩もたくさん見ました。
喧嘩のグループの中の人に間違われてビール瓶で殴られそうになったり、後ろから髪の毛を引っ張られて倒されたりもしました。
ゴキブリの海のようなところもあったし、マグカップの中のコーヒーにうつ伏せで浮かんでいたこともありました。
ところで一つ目の会社を辞めてその後新しく始まった仕事ですが、日本のブランドの靴を一人で担当しました。
一人だったのでこの仕事でサンプルや企画から単価、生産、出荷手配、貿易業務の全てを覚えることができました。
このブランド自体が続かなかったので、一年ほどでこの仕事は終わりました。
それからしばらくは日本の商社の靴をやりました。
ここで初めてスニーカーと出会いました。
これまでは革靴ベースだったので、スニーカーは全く専門外です。
しかもコンバースとかと同じゴム底で、これは本当に工場設備も全く違う別物です。
ここでスニーカー一本で深く理解することができました。
そんな中、年齢も四十歳になり、もう日本に帰ろうかと考え始めました。
辞めて日本に帰るんだと回りに話していたところ、一本の電話がありました。
スニーカーのデザイナーで来て欲しいということで、依頼はニューヨークのブランドでした。
この頃すっかり忘れてしまっていましたが元をたどれば靴のデザイナーになろうと始めたはずでした。
そこで少しやってみようかと契約することにしました。
二か月を1セットで、ショーのためにデザインとサンプル作成を毎日毎日やります。
三十型くらいやって、また二か月したら最初からやり直しです。
ネットを見ると世界中で商品として発売されていたり、テイラースウィフトが履いていたり、華やかな結果もありますが、実際には毎日毎日、材料屋、革屋、ビーズ屋、刺繍屋、サンプル室、パソコン、、、、、そしてまた初めから。
延々と続く地獄のようです。
たくさんの商品を作ったし、細かい作業も向いているように思いましたが、気持ちはあまり楽しくなく、常に追いかけられる苦しさで辛い毎日です。
ショーの日は決まっているので、止まることもできない。
精神的限界と、日本への帰国したさから、やっと帰国ました。
靴の仕事始めてちょうど十年がたっていました。
今の会社に入ってすぐにコロナ騒動が始まりました。
先に帰国をしておいて本当に幸運でした。
みきくんはたくさん詩の活動や音楽活動を楽しんでいますね。
表現が豊かでうらやましいです。
いつか聞きに行ってみたいですね。
でも私はまた次のところへ行きます。
今回は早足でまとめてしまいました。
記憶に残っていることは少なくて、全てを思い出しながら一度に書くのは難しいですね。
これからの十年、また別の場所で苦労が続きそうですが、それはリアルタイムで詳しくお伝えできそうです。
それまでの時間、今回の話に載っていない短編をお伝えしますね。
空き巣が入ったこと、緊急入院で死にかけたこと、吹雪で遭難しかけたこと、猫の帰国手続きや空港で警察に囲まれたこと、飛行機で気絶したことなど、まだまだたくさんあります。
今回はこのへんで。