ドキュメント映画「選挙と鬱」試写会、感想文 馬野ミキ
淡々と事実が時間軸に沿って映し出される
録る側の演出的な意図はなるべく省かれているように感じる
まあ確かに、それがドキュメンタリーというものかも知れない
けれどもドキュメンタリー映画とて、観客が物語を見やすいように最低限の誘導があるはずだ
無編集で全部放り投げるわけではない
その境目がどの辺なのかなというのが、自分がドキュメンタリーを観る時の一つの指針だ
自分は詩人として、多くはない部数ではあるが本を出している
が、他人の詩集や小説はほぼ読むことは無くて
観たり読んだり聴いたりするのは、ドキュメントとお笑い
うちから一番近い図書館の小さめのドキュメントのコーナーはほぼ読み切った
基本的に、事実は小説より奇なり
監督の青柳君とは、彼の蟻鱒鳶ル(アリマストンビル)での撮影で出会い
今回の試写を観覧させてもらうに至った
自分は双極性障害の診断を受けている
簡単に言えば、躁と鬱の繰り返しにより社会生活がままなりませんね、という症状であり
ハイの翌日にはローになり
他者に反応することに割くエネルギーがないので、1人になる
他人の様々な、この人を元気にしてあげようという思惑を苦痛に感じる
元気とは何か?
明るく元気に振舞ってほしいという他人が面倒くさい
だけれどなるべくはそういう人も傷つけたくないな
結果、出来得ることは なるべく一人ぼっちでいて休むということ
主人公水道橋博士の 鬱への過程への描写は「選挙と鬱」では
周囲にいた人たちのコメントによってあらわされている
まあ、撮影どころじゃないということもあるのだろうが、観客がこの躁から鬱へのグラデーションを追体験できるのかは微妙に思う
「鬱は甘えだ」と、いう言葉もあるが
そういう考えを持った人にどれだけ訴えられたか
これは映画を観る前から終演までそうであったが、主人公、水道橋博士に対して
死んでもいいからやり遂げろよ
というむごい気持ちを僕が抱いてしまったのは正直なところである
これは野蛮な考え方だ
だけれど事実ぼくのこころにはそういう感情が芽生えたのは紛れもない
すごく残酷なことであるが
「選挙と鬱」を観て、一番考えさせられたのはその部分
だからか、三又さんがおちゃらけたり
選挙カーで物まねをするのは笑えなかった
もっとシビアでシリアスなことが実際には起きていると感知していたからだ
でもだからこそ逆説的にその現場では、それらを笑いに変える必要があったのかも知れない
自分は一度、れいわ新選組のボランティアに参加したことがある
事務所は熱気に包まれお祭感がありアットホームであった
移動費は自腹だったので、金がない自分には何100円でも生活費を削るもので痛かったが
本当に何かが変わるのであればこのリスクを自分でおっても良いと思った
たぶんその時、そういう人が集まっていた
ドキュメンタリー映画「選挙と鬱」には
・芸人が選挙に出る
・当選したが鬱になる
等の分かりやすい見方があるが
We!Me!
そのなかのどの登場人物にも自分とそうでないものを、見出せるかもしれない。