ペペさんの思い出と私の回顧録 アレクセイ・渡辺
ぺぺさんの思い出と私の回顧録・前編
ペペさんの数多い友人の中で、取り立てて、私がぺぺさんと親しかった訳でもなく、また、特別な関係を築いたわけでもない。 ペペさんについて書いてみないかというお話を頂き、迷った末に書いてみようと思ったのは、ペペさんとの交流が私の人生の節目節目で大きなものであったことであり、私が私の人生を読解するうえでも重要であるからだ。ペペさんの追悼であるこの文章は、また一方で私の回顧録でもある。
ペペさんに何を与えられその都度何を私は考え、行動してきたのかというペペさんについての記憶を呼び起こす作業であり、それはある意味ではきつい作業だ。
これは冗談でもお世辞でもなく、ペペさんには文学的センスがあり、世情や個人について、なるほどと思う言葉を聞き、頂いても来た。
「すべて本当のことを書けば、作品は燃える」という言葉を頂いたことがある。また「作者は死ぬ」という言葉も。
だから、たいそうに死なない程度というわけではないが、補正や書かないことが入るのをお許し頂きたい。
ペペさんと出会って間もない頃、私は「いけてない」二十二歳の若者だった。今も「いけてない」が。ペペさんに初めて誘ってもらった集会の二次会だろうか、
「このひと、『単独者』気取りで、病気こじらせちゃったんですよ」
と私の代わりにペペさんが私を紹介してくれた。
「単独者」とは柄谷行人が80年代後半から90年代にかけて提唱した概念であって、当時の思想好きの青年は影響を受けた人もいると思う。私も影響を受けたが、柄谷行人を私はちゃんと理解してはいない。パラパラとめくった程度であって、そこで単独者ってかっこいいなあという程度の理解、理解なのかどうか怪しいが、その程度の見識だった。
私が当時、読んでいた本はハイデガーの「存在と時間」で「世人」にまみれ「空談」に身を費やす「大学生」どもに鉄槌を!!という感じで読んでいた。かなり右寄りな理解。そこから柄谷行人の「共同体批判」理解や「単独者」理解になっていたのかもしれない。思想のヒロイックな一面しか見ることができていなかった私は「思想」に向いていなかったのだろう。
私の病気というのは幻聴、被害妄想が主な症状であった。私は中学校の時から多分統合失調症だった。当時神経症だと思っていたが、当時の言葉でいう分裂症と神経症の両方が併発していたのだろう。統合失調症の人は「思想」に引き寄せられる一面を持っていると思う。
ところでペペさんのその言葉で「単独者」は無理だ。というより、私には無理だ。ということが判明した。当たり前だが。
さて、それから、だめ連及びだめ連界隈の方々とそれから遊ぶようになった。活動家や芸術家、知識人の人々と交流した。そこでは皆がかっこよく見えた。特に活動家の方々が。活動家というのは直接的に現実の時間や空間と直面して、そこを変えていく作業をしていく。これは実に難しく、スリリングで、大変なことだ。私が当時感じたのは、彼ら、彼女らは活動家でもあるし芸術家、或いは活動家でもあるし知識人でもあるというように枠にとらわれない活動を展開していた。
だめ連及びだめ連界隈の活動というのは多岐にわたり、今だと当たり前なのかもしれないが、一種のネットワーク状のような広がりを持っていた。
私がだめ連及びだめ連界隈の方々と交流して思ったのは、「だめ」という言葉とは裏腹に世の中にはこんなに優秀な人々がいるのかという驚きであった。かなり高価なフランス現代思想の本の中、遠いフランスの中でしか知らない活動や運動、路上芸術がそこにはあった。
それが驚きだった。ここにあったんだあ、というのが私の驚きだった。
故にエピソードには事欠かないが、そういうことを一つ一つ書いていくと枚数が追い付かないので、はしょります。
だめ連がメジャーになっていくにつれて、だめ連の中で、いけてる―いけてない問題が発生してきた。
私の場合、「だめ」なひとではあるのだが、微妙なニュアンスで「いけてない」というほうがしっくり来ていたと思う。
「いけてない」ならばどうするか?という難問に自分はぶち当たった。
若者の集うある祭りに行こうかなとペペさんに言ったところ、
「そんなおしゃれなところに行って、ジョニーさん(私の呼び名)ただでさえ『いけてない』のにどうするんですか?」
とペペさんに言われた。
自分は「だめ」な「だめ連」の中でもいけてない、だめなほうの人間だ。そういう人間がどういう風に生きていけるのか。という難問にぶつかった。「全てが資本主義だ」と私は改めて、本の中にではなく、生きている現実として90年代後半にそう思った。
ひとつに「いけてない」なら「いけてる」ように努力するという考えがあり、もうひとつに「いけてない」なら「いけてない」自分を受け入れる、という考えもある。最後に「いけてない」世界でも生きていけるように「世界」を変えていくという考えもある。当時、考えたのは資格を取って精神疾患をカバーするというものだった。ありがちと言えばありがちだが、当時の私には画期的に思えた。それで、労働界に参加するということであった。
福島に帰ったのはちょうど2000年の頃私が25歳の時だった。
福島の精神科病院で私は医師に
「こんなに重い薬飲んでて、働けるわけないじゃないですか」と言われた。愚鈍な私はじゃあ、症状が良くなれば働けるのかな、ぐらいに思っていた。
親のすねをかじって、作業所に通った。時折、娑婆で働いたが、長続きしなかった。そこで私はより一層、資格を取って、働くという夢というより、妄想が強まった。「資格武装論」を地元の周囲の人に唱えた。リーマンショックの頃だろうか、私は親に「生活保護を取れ」と言われた。
いよいよ来るものが来たと思った。が、恐れはなかった。何とかなるだろうくらいに思っていた。
「生活保護」はありがたい制度だ。一方で受給者にとってはある意味では屈辱的な制度である。
極めてありがたく、なおかつ屈辱的な制度が生活保護だ。生活保護について書くと話が長くなるので、はしょります。
人にはそれぞれ天から役割が与えられているのではないだろうか。
活動家、詩人、芸術家、知識人。
だめ連及びだめ連界隈で私は活動家の人のお手伝いをしたり、詩人の学習会に出たり、芸術家の展覧会に行ったり、知識人の集まりに行ったりしたが、結局今思うのはどれもが私は役割として、また、力量として不足していた。力量不足でもよいのだが、そこに開き直ることができなかった節もある。
2011・3・11以降に私が思ったのは、私の番が来たなあ、ということである。私が当事者として矢面に立つ番だと思った。
2011年5月の東京の渋谷の脱原発デモに参加する。ペペさんに東京に呼んでもらった。ペペさんにいろいろ世話を焼いてもらった。
今、考えると不思議でも何でもないのだが、福島の動きは遅かった。ひとつに放射能汚染の地域が広大な規模になったため、全県的な避難が優先されたためだ。もうひとつにこれは私の推測でしかないが、福島の広さに関係してくる。浜通りの人々の危機感を中通りの人々はあまり共有できていなかった。また、意識の高い人々が真っ先に選択するのが避難であるため、運動の先導役を担うはずであった人々がいなくなってしまったということだったのかもしれない。全県的な盛り上がりに欠けた側面はあると思う。
私的なことになるが、私は当時体重が150キログラムあった。そのため、私は渋谷のデモを途中で離脱してしまう。膝が痛くなり、長時間の歩行に耐えられない体になっていたのだろう。だらしないことだった。
次の日の東電前アピールには何とか参加できた。
有名な高円寺の「なんとかバー」にも連れて行ってもらった。
ただし、ペペさんは私に対して失望していたと思う。
もし、「だめ連」時代の私に特異性があるとすれば、それは私が「いけてない」けど「冴えた人」という相反する特徴を持っていたことだ。「いけてない」「だめな」人だけどある意味「冴えている」人。
しかし、もう、その当時、私は冴えた「若者」ではなかった。若者ではなくとも冴えたことを言える人、行える人であればよかったのだが、その頃、私は「現代思想」やそのたぐいの本を読むのをやめて、しばらくたっており、また、左派的な考えをしてはいたものの、福島の土着な考え方や生き方にずっぽりとはまっていた。なぜ、思想本を読むのをやめたのかというと、まずは、思想本を買うお金がなかったこと。次に、私の場合、ジジェクを好んで読んでいたのだが、精神医学や薬の進歩のおかげで、幻聴、妄想が症状から消えたことで、精神分析はもう古く、漠然とだが、これからは「科学の時代」が来るのではないかと思ったこと。また、地元に趣味の合う仲間がいなかったこと等々。
科学の時代が来るということは福島の原発事故で逆説的に証明された。かなりアイロニカルだが。
それから一年後くらいだろうか、私は脱原発運動からの脱落⁻転向をする。どういう理由付けか忘れてしまったが、脱落⁻転向したことだけは覚えている。理由付けはともかく、私は地元で運動的なつながりを持つことはできなかった。「生活保護」だと地元で名乗ることが怖かったからだ。地元で「活動仲間」を持ち得ることはなかった。私はまっとうな市民ではなかった。そこがまずもって最初の高い高いハードルだった。
まっとうな市民になるために労働界に参画しようとして、私はますます「資格武装論」という妄想にはまっていくことになる。
ぺぺさんの思い出と私の回顧録・後編
腰が痛い。腕が痛い。身体は動かなかった。私は突発性の妄想で精神科病院の二階から飛び降りた。その後の記憶は欠けている。ただ、地べたに倒れていた自分から記憶は再開される。
私はそのまま、近くの総合病院の整形外科に入院することになった。入院中に何度か夢を見た。夢の中には時折、ぺぺさんや神長さんが出てきた。ペペさんが私を銃で殺そうとする夢もあった。私の罪悪感はそれ程までに酷かったのかもしれない。
腰の骨折と右腕の複雑骨折が癒えてくると、私はまた精神科病院に入院を移した。
そこで天皇を擁護しないと、一族郎党を皆殺しにする、という映像でのお告げの後に、
「久しぶりだな。お前は俺を覚えているか?」という声が病室の中で聞こえた。私だけに。
「はい、覚えています」本当は覚えていなかった。その時。
「お前は何をやりたいんだ?」
「小説を書くことと映画を撮ることです」と私は言った。
その時は誰だか分からなかった。声のみが私に降臨した。
後にその声は大日如来のものだと私は理解した。
「四姓平等」を唱える仏教があからさまな身分制を積極的に容認するはずがないと今は、私は考える。そのお告げはひとつの方便だと。当時、私はそれがわからなかった。自灯明・法灯明と仏教は言う。自分で考えるほかないのだ。
八か月の入院を経て、私は仏教の信奉者になった。数々の不思議なことが起こったが、それは長くなるので省く。
私は生きる目的を仏によって与えられた人間である。その目的とは「障がい者小説」を書くことである。しかしこれはこれで厳しい道だ。
東京の友人たちと交流が再開する。変わっていたのは、究極Q太郎さんがだめ連に復帰していたことだった。
しばらくして、ぺぺさんとふみ足さん、マコッサさんが三人でわざわざ東京から福島の私の住処であるアパートの部屋を訪ねてきてくれた。「冴えた」しかし「いけてない」若者であったジョニーではなく、ひとりの精神障がい者であるジョニーのもとにである。
小説を書き始めた私に、ペペさんが言っていた言葉が「ファンが五人つけば、大成功」というものがあった。今、その言葉を実感する。
ぺぺさんいろいろありがとうございます。私たちを天国で見守って守護してください。