書くだけでいいの? ■ワークショップ「読む前に書け」 安孫子正浩
大阪庄内でインディーズ本などを扱うギャラリー&本屋の「犬と街灯」さんで月に一度『読む前に書け』というイベントをやらせてもらっている。ワークショップと名乗るほど主宰の僕が何かを指導するということもないので、即興創作のゲームとでも思ってもらえればいいかも。僕の仕事はさしずめゲームの進行係だ。
「制限時間は15分、テーマによって400字原稿用紙一枚の作品に仕上げる。小説でも詩でもエッセイでもかまわないが夢落ちは禁止」
というのが開始時の口上で、続けてその場の誰かを指名する。その人が口にした言葉がテーマ(モチーフ)となり、そこからイメージして作品を書く。最近は「犬」「煙草」「運」「たらこパスタ」と具体的な事物を指す普通名詞が続いているが抽象的な言葉でもよく、もっと長いフレーズでもかまわない。たとえ途中でも15分経てば筆を置き(ズルはない)そこから作者が読み上げる。それについて感想もしくは批評を交換する。アイデアが褒められることもあればバランスの悪さを指摘されることもあり、印象的な一文に盛り上がることもあれば、よくぞ400字でそこまで要素を詰め込んだと感心されることもある。苦心した挙句駄洒落やベタなアイデアに逃げ込めば他の参加者とかぶって気不味い思いをすることもある。
発端は2000年末。
大阪の中心地梅田にほど近い扇町界隈は、かつては小劇場やおしゃれな雑貨を置く店が多く軒を連ねるサブカルチャー発信地だったが、バブル以降活況に程遠く、街区にひしめくバーの多くが苦しんでいた。地域に人を呼び盛り上げようとの趣旨で、当時扇町ミュージアムスクエアにいらした山納洋氏が企画したのが「Talkin'about」。往年のパリのサロンのように、夜ごとどこかのバーで「経済」や「国際情勢」や「映画」や「占い」ついて話すイベントで、フライヤーやネットでいついつどこでこんなテーマのサロンをやる、と告知すると、そこにふらりとお客さんがやってくる。この「Talkin'about」の一企画として『ポエトリーリーディングの夕べ』を主宰されていたのが平居謙氏だった。
その平居氏から「小説のサロンを回せる人を山納さんが探してはるんやけど、安孫子さん、やらへん?」と声をかけていただいたのが発端。小説について語る会としてスタートするも、既読・未読で生じるズレやただの感想会になることに限界を感じ路線を変更。「その場で書いたものについていいあうのであれば情報量の差は生じまい」というワークショップ的ではないところの発想からいまに至っている。
最盛期には参加者20人を超え(当時は参加費無料。そのかわりに店に払うバー・チャージが必要。ドリンク代も)新聞取材も受け全国紙に記事掲載されたこともあるが、数年したところで自分の仕事が多忙になったという完全なワタクシゴトで『読む前に書け』は終了する。
諸事情が許し昨年末より再び『読む前に書け』をやっている。
原則第二土曜日の夕方。二十数年前にメインで使わせてもらっていたバーが閉店し会場を探していたところ、「犬と街灯」の店主クリタさんと運命的に出会いさせてもらえることになった。ある筋から「イベントを続けるなら必ず有料にしなさい」と指南もあって現在は参加費を頂戴している(700円)。コロナ禍でもあったので10人程で満員締め切りとしているが、中身のある批評を交換するにはこれくらいの人数が適正なのかも。時間が許せば2セットやる。
2002年に『詩と思想』で記事を載せてもらったときに「みんな何かを表現したがっているというのは発見だった」と書いたが、20年を経てもやはり書きたい人はいた。かつてもいまも支えは「書きたい。聴いてほしい」という参加される人たちの気持ちだが、主宰としての僕が心掛けるのはそれとは少しだけ違うところにある。
『読む前に書け』は創作の場ではあるがそれだけに非ず、健全な批評の場として機能させたい。
これまでもいくつか創作批評の場に臨んできた。
作者の意図を汲み取ることもなく読んだ人がただ自分の好みを押し付けるだけの場面を何度も見た。自作を読みたいだけの人が場の雰囲気やイベントの方向性も気にせず場違いな作品を読み、他の人の作品を聴いてもいない場面も見た。有名ブッカーの取り巻きめいた常連たちが既得権益的な評価基準を形成し、アウェイの書き手や読み手を軽く扱ったり上から目線で審査したりする場面も見ている。
そのときにいつも感じるのは「それで、おもしろいか?」という疑問だ。誰、得? とも思う。自己満足を披露し合うだけの場になぜつきあうのかといえば、自分の作品を読む順番を待っているからか。あるいは著名ブッカーや詩人に認められたいという矮小な承認欲求?
僕自身がそうなのだが読まれるだけでは物足りない。書いた作品についてあれこれいってほしい。心地よい賞賛が欲しい気持ちは(人なので)当然あるが、お愛想で褒められてもなぁ、それだけじゃつまらない。
詩を書く人たちといま以上につきあいがあった頃、「詩はイコール自分なので他人にとやかくいってほしくない」といわれたことが何度もある。ではなんでそれを他人に手渡すのか。「おれの作品に意味なんかない(だからとやかくいうな)」という人の作品を読まされるこちらの意味は? とも思った。
感性や独自のセンスを否定することは当然できないが、構成や言葉の選び方について「こうした方がより伝わる」というアドバイスは客観的立場からしてもよいと思う。本当に「いい」と思ったところを衒いなく「よい」と評価するために、「よくない」と思ったところは出来る限り理由つきで指摘する。理想は、ある点について「よくない」という意見が出ても、別の参加者が「いや、それはよい」ということだ。誰であっても意見は絶対ではなく、複数の是非がでることで書いた本人が何かを得ることが大切なのだから。
15分の即興で書いた作品にあれこれいわれる是非があるのは承知なのだが、しかしそこはゲームであると割り切り、楽しんで臨んでもらえたら主宰としては本望である。自分でも意外なアイデアが降ってきたり、「ええやん!」と思って朗々と読み上げた主宰自身の作品がまったく通じず酷評されたりすることもあるのだし。「これまで詩も小説も書いたことない」という初参加の方がスゲえ、と手練れの常連を唸らすことだって度々だ。冗談でも何様でもないものが偉そうに審査することはないので、どうぞ気軽にきてください。(了)