月が見ているー「究極Q太郎詩集 散歩依存症」の淋しさと懐かしさ 緑山アリ
究極Q太郎さんの詩についてこういう感想はなさそうなので、わたしだけの感覚かもしれませんが、究極さんの詩を読みながら、わたしは理由のはっきりしないもどかしさを感じてきました。この感覚があることで、さらに詩に世界に惹きつけられる。そういう種類のものです。
これはなんだろうと、かねてから首を傾げていたのですが、この感想文を書くにあたって、改めて考えてみることにしました。
そして思い当たったのが、稲垣足穂がつまらない小説を批評するのに使っていたという「懐かしいものがなにもないじゃないか」という言葉です。(これは関西弁で言われていたようですが、インチキ関西弁にならないように東京の言葉で書きました)
究極さんと稲垣足穂は関連性が薄く、もどかしさという嘆息もあまり究極さんの詩に相応しくないのですが、試みに少し考察してみました。
究極さんの詩には、しばしば動物、草花、樹木が描写されます。同居していた黒いパグや兎のタマ、子糠雨の空を飛ぶ番いの燕や、雲雀、花蜘蛛、ダンゴ虫、ヒマワリ畑に夾竹桃……〈白いムクゲの花が咲き/立葵が赤い大輪を掲げ/百日紅が桃色の花を/咲きあふれさせていた。/うす曇りの空の/西のほうに山並みが透けて/そこから明るい絹の糸が/わきあがってくるようだった。〉こういうように、魅惑的で印象的に。こういった景色は、詩に現れる「散歩中に擦れ違っていくあの世」と地続きの街中に出現します。
そこに存在するものたちが創りだす、なんとはなしに曖昧で心地良い場所に、わたしはしばらく留まっていたかったのです。しかしそれが不可能なのです。
「ガザの上にも月はのぼる」という詩には、棲家を追われるムクドリと、最期の砦を護るような愛犬との生活が描かれます。これは世界の紛争における凄惨なジェノサイドや、幸せな人生だと刷り込まれているものの狭さ不自由さに対してのメタファーであり救いだと思いますが、この詩を読んだ人は、この生き物たちのほのあたたかい体温をそっと両手の中に包んで、酷薄な世界から護りたくなるのではないでしょうか。けれど、なのです。てのひらに匿ったとたん、ムクドリもパグも抜け殻になってしまうのです。詩はそのぬくもりを惜しむことなく先へ移ってしまいます。究極さんの詩には、しばらくそこに揺蕩っていたい場面や、手や胸に中に仕舞い込んでしまいたい生き物たちがたくさん存在しているのですが、その景色は読み手をその地点に留まらせることなく、するすると次の場所へ移って行ってしまうのです。
わたしが、自分の心からなにか肝心なものが抜け落ちてしまうようなもどかしさを覚えてしまう理由は、おそらくこれなのです。そしてこの感覚は、「懐かしさ」と近いと思うのです。
数年前になりますが、明け方の西の空に浮かんでいた白く大きな月を見て、究極さんにメールを送ったさいに、「月はやさしそうに見える」と書いたところ、究極さんからの返信では、「自分には月は淋しそうに見える」とありました。
淋しさと懐かしさは、感情の種類としてはよく似ていると思います。淋しさも懐かしさも、単純にいえば心が完全には満たされない状態です。淋しさはときに雲散霧消することもあるかもしれません。わりと普通にあることでしょう。しかし懐かしさというものは、埋まらない欠落に胸を抱えて、心のどこかでいつかそれが満たされればと願いながら、なおかつそれが叶うことは絶対にないと諦めている状態ではないでしょうか。わたしが抱くもどかしさの正体は、こういう淋しさ、懐かしさの感覚なのです。と、とりあえず結論が見えてきたように思いました。
ところが、ある詩の中に、〈過去に故郷をもたない〉という言葉を見つけてしまいました。そうすると、究極さんの詩に感じるものを「懐かしさ」と捉えるのは違ってくることになってしまいそうです。
おそらく、なのですが、わたしにとっての過去とは、いつか帰りたいと願いつつも、それを果たせない場所への郷愁であり、かたや究極さんにとっての過去とは、振り返って帰りたいと哀惜するどこかではないのではないか。究極さんにとっては「今」も「過去」も愛着するものではなく、それゆえに「失ってゆくもの」にもならないのではないか。しかし、過去に故郷をもたなくとも、記憶は残るでしょう。失われてはいない、記憶としては存在する、けれど、もうすでに、ここにはない。それが究極さんの詩なのではないかなどと、自分なりに解釈してみました。愚考してみました。
かつて会話を交わした人々、その場に佇んだ風景、通り過ぎてきた道で居合わせた動植物、それらが有機的に織りなす営みの断片たち。この手でこの目で確かに掴むことができない残像と、詩の中でわたしたちはいっとき出逢い、指のあいだから砂が零れるように擦れ違います。それらが、もどかしさや懐かしさを心に残していくのではないか。
しかし、そんなわたしの混乱や感傷を置き去りにしたまま、究極さんはさまざまな邂逅を通過して、着実に先へ先へと「今さっきの場」から抜け出していくのでしょう。そして究極さんは、過去から現在に至るこの世界の道程が、どのような未来へと続いていくのかを、深更の月が天空から地上を眺めるように明徹に見つめているのでしょう。