腐日記/アレクセイ・渡辺

2021年09月26日

「腐日記」


9月14日
誰もがいつか朽ち果てるということは自明であり、明瞭であり、軽くもあり、重くもある。
生を一回分生きるということはこの年まで来ると難儀であり、有り難くもある。
ああ、生きてしまった、という感慨が寝覚めると残り、まだ生きたいとかバッドな気分のときは、ああ、まだ、生きてるのかよ。もういいよとか、あらかたこの
コロナ禍になってからは、いつまで生きられるのか、という怯えが心を走り、困ったものですね。



9月16日
最近、こういうことがあった。
小説にヘテロという言葉を使った。地元の友達が
ヘテロってなんだい?
と言った。
私が
異性愛者のことだよ
と答えた。
友達が
たいした気して、そんな言葉使って、なんだい?俺にわかんねえべした。普通のひとって書けばいいべした
と言った。
そこら辺、変えてけろ
と友達が言った。数少ない読者であったから、私は変えた。
しばらくして、東京のインテリの友達に小説をみせた。
普通のひとって書くのは、マジョリティーとしての意識を相対化できていない。だめだ
と東京のインテリの友達が言った。
私の頭の中はごちゃごちゃした。何か日頃意識していない見たくないもの、感じたくないものを経験した。
田舎の大衆の愚鈍さ。東京のインテリの意識の高さ。私は引き裂かれた。たぶんに双方には和解しがたい怨念がある。そこには私がみたくなかったなにかがある。それを隠蔽してはいけない。大衆を無視したり、馬鹿と一喝する。あるいは啓蒙しようとするのは簡単だが。
はたまた、田舎の大衆を美化するのも良くないことだが。



9月24日
友達が入院した。友達は詩を書くのが趣味だ。小説も書く。
私は詩を書かない。ある人に詩は向いていない。と言われて書かなくなった。短歌めいたものを書くのは作業所でほめられたから。
東京にいたとき、詩人や文学に詳しい人がたくさんいた。皆さんはランボーが好きだった。私はランボーが訳がわからなかった。ランボーの陽光が眩しすぎたのだろう。
福島に帰って、今の友達と出会った。彼はトラークルとリルケを好んだ。特にトラークルを。
彼は世界の没落体験が好きだ。私も没落しっぱなしなので、トラークルはピンとくる。
ここで君はフランス語がわかるのか。とかドイツ語がわかるのか。とかいうことになるが、私にはどちらもわからないので勘弁して。
小沢書店のトラークル詩集から引用する。

腐敗のにおいが地面から漂いでる。
若いはしためより

人殺しが酒の中で青白く笑う、
患者たちを死の恐怖が包む。
                               夜のロマンスより

まるである時ある地域の福島のことのようだ。
友の回復を祈ります。



9月25日
コロナ禍で死ぬことについてしょっちゅう考える。私も40代後半糖尿病持ち、喫煙者、この世に生きているなかで私のマイナスポイントは他にも数知れない。自虐的に人間のクズと言ってしまいたいところだが、今は言いたくない。この御時世では、じゃあ、死ね。とか 言われかねない。自虐ネタとは生活と精神に余裕のある人のする事だ。いま、自虐ネタを言っていたら敵に負ける。

私も今死にたくはない。いつかやがてくる死は意外と近いところにあるのかも知れない。アルコール消毒液を手にすりこんで死を避けようとしてる毎日なのだが。
いまを精一杯生ききる。


9月26日
他人の死は身近で自分の死は遠い。
この日記は腐日記と銘打たれているが、腐とは衰え行く自分の身体を凝視したいと思った故。
けして自虐ネタからではない。
マスクに携帯用消毒スプレーを持ちながら街を歩く。
誰もある意味信用できない。だが
皆を信じるしかない。
この腐敗した身体に死は近く、スレスレ

私はいつか死ぬ。その自明のなんと酷薄なことか!!













アレクセイ・渡辺