連載:これも愛やろ、知らんけど ⑦深夜徘徊センチメンタル 河野宏子
好きなバンドのライブを観るために遠い街へと出かける、いわゆる「遠征」をする。時どき、いや頻繁にする。2023年の7月に広島に行ったのが皮切りなのでちょうど一年が経った。広島に始まり東京、岡山、名古屋、年末にもう一度東京、千葉、また東京、そして先週末は金沢へ行った。稼業を休み家を空け交通費と宿泊費を払ってまで観たいライブがあるのでしょうがない。人生いつ終わるかわからないもの。そのために働いているし。
ライブが終わってから、大抵はひとりで近くの居酒屋に入る。なるべく小ぢんまりとした、カウンターで地元の料理やお酒がいただけるところを選んで周りのお客さんの会話を聞くともなく聞きながら食事をし、今日のライブも良かったなぁ、と記憶を反芻するうちにお酒も相まって、たちまち胸がいっぱいになってくる。けれどひとりなので誰とも感情を分け合えない。いや、味わい尽くすために、そもそも望んでそうしているのだけれど。
その時間帯になるともう終電も出ていたりして、店内は店員さんか夜通し遊ぶ若者、近所の常連さん、あるいはわたしのような旅行者がほとんどになる。よく知らない街で、土地の訛りの混じる空気に浸りながら三杯目を飲み終えてお会計を済ませ外に出る。別にホテルに帰らなくてもいい。ここでは母親や妻の役割から自由になっているのだし、街はまだずっと夜のままだ。冬ならば眠気で厚ぼったい瞼に冷たい空気を、夏なら首筋にじっとりした湿気を感じながら、目的なく街をうろつく。いつもならとっくに眠っている時間に、誰でもない透明なものになって、週末の人気ないオフィス街や喧嘩する酔っ払いの怒号とび交う飲屋街や大きな七夕飾りの揺れる伽藍とした商店街や緑のにおいで胸がぎゅっと苦しくなる郊外のバス通りをひたすら歩く。
ーーわたしは一体何者で、どうしてここにいるんだっけ。
軽い酔いと疲れで一刻も早くベッドに倒れ込みたいはずなのだけど頭の中にも耳の奥にも残響と熱がまだしっかり残っている。すれ違う人ひとりひとりにそれぞれの幸せと寂しさがあると想像しながら歩いていたら鼻の奥がつんとして街灯の光が滲んで揺れる。スマートフォンの充電があと5%だ。気持ちを切り替えて宿で配信の映画を見たり起きていそうな誰かに唐突にLINEを送ってもいいのかもしれないけれど、わたしはこうしてわざと迷子になっている。もうこんなに大人なのに。子どもも産んだし父親も看取ったしなんならこれからは自分が老いていくだけなのに。家より他のどこか辿り着ける場所がまだあるような気になりたいのかもしれない。どこに。
こんなふうにもう人生の先も見えつつある段階にきてもわからないことがいっぱいあるなんて思いもしなかった。たとえば。好きなバンドの若いお客さんが「BBAのガチ恋うざい」と見知らぬ別のファンにSNSでキレている。母親ぐらいの年齢の女性の生々しい感情を見たらそう反応するのは不思議もないけれど、正直な話をさせてもらうとわたしはこの歳になっても、アーティストに対する尊敬の感情とリアルな恋愛感情がそこまで隔絶されているとは思えない。作者と作品は別、は大前提ではあるけど、作品を好きならそれを創った人をも好きになる知りたくなるのはほぼ必然でもあるし、そこを聖俗で分けなければいけないわけでもない。だってライブで顔が見れたら嬉しいし、視界に入る可能性があるならできるだけ綺麗な自分で行きたいもん。迷惑行為でないなら、正す必要なんてあるのかな、というかそもそも感情なんて勝手に湧くのだからどうにもできるものではないではないか。確かにご本人も見る可能性があるからあんまり生々しい気持ちはSNSに書かない方がいいかもしれないけど。うーんわからない。若かったら許されるものなのかな。大人になって言えるのは、行動の制御はできるけど感情はムリ。正しいかどうかじゃなくて現実はそうじゃない?って話。そしてそんな潔癖さを羨ましく眩しく感じているあたり、わたしもすれっからしの大人になったのかもしれない。
午前2時ごろにようやくホテルの部屋に戻る。スマートフォンを充電して放置していた未読LINEを見ると母親からで、親戚が送ってくれた桃をすぐに取りに来なさいとある。明日電話する時にうっかり遠征先にいることがバレないようにしなくてはいけない、だって遊んでないで貯金しなさいって叱られるに決まってるもん。