連載:これも愛やろ、知らんけど 11 ゴリラの愛、ゴリ愛 河野宏子
眠る前に意識を宙にとばす。寝室にしている六畳の和室の天井を幽体離脱したわたしが突き抜け、ドローンの空撮みたいに団地の屋上を映し高みにのぼるに連れ今度は鳥の目線になると淀川の蛇行が視野に入ってきて、飛行機の高さになると、あんなにごちゃつき入り組んでいるはずの梅田の街ですら、一枚のきらきらした光の基盤のようになる。あれが阪急、あれがJR、新大阪駅を貫く東海道本線。やがて瞼の裏は人工衛星からの映像に替わり、夜の灯りで縁取られた地形が雲の切れ間に覗くのを見ているあいだに、無意識のポケットに落ちる。
頭のいい繊細な人たちから、「ものごとの理解の解像度が荒い」とか、「うわべのレイヤーしか見えてない」とか叱られることが多い。叱ってくれるだけ愛があるとは思う。そしてこちらがポンコツなせいでこの人に言いづらいこと言わせてしまったと申し訳なくなる。なんできみが傷ついたのかきみ自身に説明させてごめんねと思う。そもそも傷つくポイントがわかっていればもちろんそれは回避したから一連のやり取りは全部不要だったのに。あとは呆れながらの「元気でいいね」とか、帰ってから意味がわかる仕掛けの嫌味とか、そういう言葉をよくもらう。
わたしはゴリラなのかもしれない。マッチングアプリで寄ってきたあの喋れるゴリラたちの一族かもしれない。見下して試してごめんよオスゴリラたち。言葉なんか交わさずウホウホいって交わっていればよかったのかもしれないねわたしたち。
ゴリラなのは認めるけど、雑だとか迂闊だとか言われて傷つかないわけじゃない。こっちだって好きでゴリラに生まれたんじゃないわ。毛深い背を丸め黒光りする手のひらを見つめてちょっと涙ぐむ。自分は詩を書くのに向いてないなと思うのはこういう時で、ニンゲンになるのを目指しもっと繊細に生きるか、ゴリラとして腹を決め四足歩行で高みを目指すかしか道はないのに無駄に気に病んで自問自答に時間を使ってしまう。わざとじゃないからいいじゃない、いやよくないから。言葉なんか覚えるんじゃなかったウホ。生きてるだけで迷惑かもよ、そうかもしれないけどじゃあしにますかと自問し始めたらなんでしなんなあかんねんウンコ投げたろかと腹が立ってくる。お葬式に参列したとして泣き崩れる群集の中にいても最後まで泣かずに棺を担ぐやつは必要でしょうが。汚れ仕事や責任を逃れて生きてる奴に限って、元気でいいねなんて言葉を皮肉として投げつけてくるのだ。ゴリラには何を言っても傷つかないと思ってるんだろうか。ゴリラの愛には言葉がいらないから、言葉を必要とするニンゲンの愛より劣ってるとでもいうのか。それを負けだっていうんならわたしは愛に関してもう全部負けでいいよ。最近調べたらゴリラの指はスマートフォンのタッチ操作に向いてないらしい。いつまでもピンチアウトが下手くそだから、わたしにはまだきみとこの世界が美しく見えている。