「アリの話」08 最終章 大塚ヒロユキ

2025年02月04日

霧に陽光が降りそそぐと、視界は瞬く間に広がりはじめた。
白く霞んでいた光景が、恐ろしいほど鮮明な映像となってアリを取り囲む。南西に切り立った雄大な尾根、黄色い花を咲かせた高山植物が生い茂る山腹、瑠璃色に淀んだ深い淵、細かな砂粒が光る岩肌、山頂に作られたケルン。
透明度が極めて高い空気は、アリの目に非現実的なパノラマを映しだす。

西にそびえる尾根に太陽がさしかかった頃、アリは吊橋に張られたロープの前方で、何かが動いていることに気がついた。
黒い影のように見える物体は、こちらを警戒して足を止めた。その後、触角で足場を確認しながら、ほつれたロープの上を這うようにして近づいてくる。
それは一匹のアリだった。
アリはそのアリを見て驚いた。そのアリもアリを見て驚いた。
ふたりは顔を見合わせて言った。
「君は/あんたは、向こう岸から来たのか?

「この先にはいったい何があるんだ」と向こう岸から来たアリは言った。
しばらくの間、アリは鏡を覗き込むようにそのアリを見ていた。
「この先には君の未来がある」アリは自分に話しかけるように言った。
「おれの未来……」そのアリはそう言いかけて黙り込んだ。
「君はなぜこの橋を渡ろうとしてるんだ」
切り立った尾根に夕陽が沈んでいく。黒く光沢のない二匹のアリの身体が赤茶色に染まっている。
「なぜって、あんたなら分かってるはずだろ」
赤味を帯びた大気はアリの目に淡いモザイク状のグラデーションを映し出す。
「空虚だ、空虚だって言うのにも、いい加減飽きたんだよ」とそのアリは言った。「おれは以前、アシナガバチに頼んでみたことがある。地面を這いつくばるのはうんざりだ、一日でいいからその羽を貸してくれないかってね。そしたら言われたよ。アリもハチも一緒、空を飛べたところで何も変わらない、心の中に鬱積した憤りや悲しみは、どこにでもついてくるってね」
夕陽はアリの目に焼きつくほど真っ赤に燃えあがり、やがて尾根の向こうに身を沈めていった。
「あんたの未来はすぐそこだよ」とそのアリは言った。「ろくでもないおれの過去によろしくな」
触角を左右に傾け、アリは静かに頷いた。そして親しげに口元を緩める。
「それも含めて君なんだろう」
アリがそう言うと、そのアリは顔を上げて空を見渡した。アリも空を見上げる。白昼の空を漂っていた白い月が、夕闇の中で光りを放ちはじめていた。
「あんたに会えて良かったよ」とそのアリは言った。
「どこかでまた会おう」
アリは右手をそっと差しだした。
「エイリアスだ」
「驚いたな、あんたには名前があるのかい」
「君と同じ、名なしだ」

日没の名残りが、峡谷を囲む西側の稜線を赤く縁取っている。山々は量感を失い、麓の辺りは薄闇に霞んでいる。頭上では、日暮れとともに精彩を取り戻した月が金色に輝いていた。アリはしばらくその様子を眺めた後、姿勢を低くして、ロープが続いている方向に顔を向けた。もう一匹のアリは、深く澄んだ東の空へと向かう。鏡を背にして歩きだすようにふたりは遠ざかっていく。
峡谷に夜が訪れる。踏み板がまばらな吊り橋だけが月明かりに照らされている。
アリは月を見上げる。
それも含めて君なんだろう、と月は言う。
アリはほつれたロープの先にある未来をじっと見据える。
空には星が輝きはじめ、夜の入口が小さな影を招いている。無数の星が瞬く天の川が空に浮かびあがる。壊れかけた吊橋は川を越え、星空へとつづいている。
アリは月光を浴び、歩きつづける。
あと少しだ、アリの口元が動く。
ロープの先に向こう岸が見えてくる。アリは今、自分が生まれた小さな星にたどり着こうとしていた。



了 




【アリの話 全8話】
著者 大塚ヒロユキ