「希望と救済を巡るファンタジー(朗読劇「庭」について)」奥主榮

2025年02月03日

 昨秋、高田の馬場のJETROBOTで、ぷろじぇくと☆ぷらねっとによって、「詩人と役者の朗読劇」と銘打った公演が行われた。「庭」という作品である。創作の背景としては、先行する別作品として「Here Come The Angels!」という作品が存在するらしいが、僕はそちらは未見である。ただ、一作の独立した作品としても十分に堪能できる舞台であったので、「庭」についての簡単な感想をまとめておく。


1.変異していく「ファンタジー」の意味

 この作品を「ファンタジー」と形容して好いのかは、判断に迷う。未見の「Here Come The Angels!」に関しては、大人にも子どもにも向けたファンタジーと銘打たれている。しかし、「庭」に関しては、僕が知る限りでは「ファンタジー」の名称は冠せられていない。また、年齢制限に関する注意喚起も記されている。そうした事実を踏まえた上で、僕はあえてこの物語を一種のファンタジーとして受け止めた。ただし、ウィリアム・モリスからJ・R・R・トールキンに至る近代的な幻想物語の系譜というよりは、そうした古典的な作品群を基礎として構築された消費される商品(例えばゲームのような)の世界の中での空想的な展開を描いた作品という印象を受けた。
 ファンタジーの意味そのものが、かつての伝統的な倫理観に基づいて描かれた寓話としての物語の中に、現実世界の諸々の問題点を投影するという発想から離れてきている。そうした、ある意味では図式的な世界認識ではなく、自分の前にあるリアルでざらざらした感触から、一歩距離を置いた場所で、切実な問題意識を語るための手段となっていると、僕は思っている。

「庭」の中に描かれるのは、こんな世界である。
 大きな災害によって、社会的制度もそれらが規範とする価値観も崩壊してしまった後の世界が舞台になっている。そうした世界で、失われてしまった世界を再生させるための秘密を巡り、老人を中心にした人々や、保護されることなく彷徨い続ける若者の二つのグループや、そこに属さない個人たちが絡んでいくという設定なのである。そうした背景設定の上に、自分たちが救済されるきっかけを探すという構図が重ねられていく。
 この物語展開の手法は、娯楽作品としての王道ともいえる。サスペンス映画の巨匠であると同時に、映画作りの規範を築いた(同時に思想的には極めて偏っていた)アルフレッド・ヒッチコック監督が述べていた、映画の中には登場人物たちが目的とする一つの目標を設定し、それを軸にして展開していくと作品を受けとめる側は物語の内容を理解しやすいという理論を、とても忠実に踏まえている。
 そうして設けられた座標のような価値観を基にして、観客は舞台を観ていることができる。非常に巧みな手法である。

 これは、僕の持論であるのだけれど、物語の作者は大別して二つのタイプが存在する。一つは登場人物を「配置」していくタイプの作者。漫画家で言えば、例えば横山光輝先生や、石ノ森章太郎先生。個々の登場人物を個性的に設定して、後はそうした個性の持ち主たちがどのように動いていくかに物語の展開を任せていく。大友克洋先生等も、この系譜に並ぶであろう。
 それとは別のタイプの作家に、一度立場を設定した登場人物をどんどん追いつめるような物語を展開させ、そこでの登場人物の変容を描いていくタイプの作家がいる。これまた漫画を例に挙げれば、手塚治虫先生や白土三平先生がそうしたタイプの作家である。登場人物は、物語の展開の中で受ける、「試練」とも呼んで良い体験を通して変化していく。(古い漫画家ばかりが例示されていて、とても申し訳ない。内容から、最近の作家に置き換えられて読まれても、全く差し支えない。) むしろ、主人公の変化(あえて成長とは呼ばない)こそが、作品の主眼となる。
 こうした創作方法の、どちらが高度であり、どちらが低度のものであるかといったような議論な無意味である。選ぶ手段は様々であれ、物語の語り手というのは常に「自分が自分の表現手段で描き得るものの限界」に挑んでいるものなのである。

「庭」の脚本を手がけた日疋士郎氏は、意識してか無意識のままにであるのか、こうした表現手段の境界を乗り越えた。
 入り乱れる登場人物による「正解」の争奪戦という体裁を装いながら、登場人物たちが「単一な正解など存在しない」という視点に至る葛藤を描いていたのである。
 ある意味、そのことが物語を錯綜させ、一見難解に思えるように導いてしまったかもしれない。しかし、実は自分が見た作品に対して「正解」のような解釈を求める意識というのは、受け手の側が単に自分の考えていることが他の誰かにも肯定してもらいたいという願望の上に成立している。それは、ある意味では作品を受け止める側の「認証願望」と紙一重の行為に過ぎない。

「庭」は、予定調和の着地点を持たない。類型的なゲームのファンタジーのような設定の中で、典型的ではない場所を求めて展開する物語として舞台は進んでいく。誤解されないように明記しておくが、ゲームをする時間はない僕であるが、ゲーム作家の多くが描く世界は、自分が伝えたいことを最大限に伝えるための文脈を踏襲はしても、最終的に描き上げていくものは、安直な結末に至らないものであると感じている。


2.物語は、如何にして解体されるか

 複数のグループが争い、そこに巻き込まれる個々人がいる。
 そうした設定の中で、登場する一人ひとりはけして、「何かを代表するもの」としては描かれない。

 過去の歴史の中で得られてきた技術。そうしたものを、ある程度は継承している老人たちのグループ。しかし、そのグループの中での価値観は統一されていない。同時に、自分たちの置かれた立場は不遇なものであるという先入観に支配されている若い集団に関しても、同様である。戯画化されているとはいえ、若い集団の中での価値観の揺らぎも描かれる。ここに描かれる世界では、配置された登場人物たちはけして、「物語を展開させるコマ」のようには描かれない。価値観が変容していく世界でたゆたう存在として描かれる。というか、位置づけられる。そうした頼りなさの中で、観ている一人ひとりが何を自分の意思で選択するのかということを、緩やかに明示していく。それは、とても繊細な表現である。現れてくる一人ひとりの肉体や言葉が、舞台の調和のための道具ではないと主張するかのように。

 舞台表現に限らず、過去の作品の世界の中では、1960年代までは作品の帰着点として「結末」を迫る展開が多かった。良きにつけ悪しきにつけ、それは戦争や貧困といった体験を代表として、何かしら切実な生活を経てきた方々が存在することを背景としていた。しかし、一方でそうした観ている観客にある意味での覚悟を強いる表現は、描き手の側の「深刻さ」を押し付けるような内容にもなりかねなかった。
 1970年代に入ってから、作品で描かれる世界の相対化というものが浮上してくる。例えば、かつては加害者vs被害者という構図の中で描かれた関係が、加害者と被害者が協力して不当な関係性を成立させてしまうといった不条理さを描くといった形で。1980年代にさしかかる頃の「小劇場ブーム」の担い手であった、つかこうへい氏の芝居は、諧謔として逆説的な状況を喜劇として描きだした。シニカルさと深刻さの合間を漂流するような、そんな描き方が、深刻さに疲れてしまっていた観客の心を捕えた。その一方で、何もかも無神経に笑い飛ばすという行為への強迫観念に囚われた観客も存在していた。当時、「どう反応して良いのか分からない」表現に接したときには、「取りあえず笑う」という方々が、確かに存在した。(回りくどい言い方になってしまっているが、少し時代が下った頃に出た清水ミチコ氏のCDで、「日本人には理解できないアメリカン・ジョークの物まね」で、けたたましく笑い声を上げている観客の声を聴いた記憶がある。「面白くないネタ」を語っているのに、今で言う同調圧力的な思い込みから、笑っているのである。)
 つか氏の芝居の中でシニカルに描かれた、被害者が加害者の捏造に加担してしまう背景というのも、当時は観客を笑わせるためのネタのようなものでしかなかった。逆説的な表現の一環であったのである。しかし、冤罪の取り調べの過程で、無罪の人間がでっち上げの事件に加担してしまう過程というのは、現在ではかなり精密に解明されている。「相手は同意した」という加害者の言い分は、以前よりは効力を失っているのである。被害・加害という二元論的な世界観が崩壊した中で、それでは何を指標にして人は存在しえるのか。
「庭」の本質は、混沌の中での指標を、迷いながら呈示するという姿勢である。
 台詞の一つひとつ、展開のことごとくが、安直な理解を拒み、着地点を拒否する。むしろ、観ている側を、自分の意思で考えさせる状態へと誘う。
「物語の中では、このような着地点が設けられた。しかし、自分は他の着地点を想定したい。」
 舞台そのものが、そうした覚悟を決めたものであることに、客席にいる人間は気づかされる。

 物語の予定調和、あるいは着地点を、この演目は否定している。はぐらかしと、切実さとの狭間の何ごとかを、改めて浮きだそうとする。
 予定調的な、「一つの価値観」は、舞台から排除されていく。そうした、一定の価値観に基づく主張を廃したことは、「庭」の大きな価値であったと思う。


3.舞台を印象的たらしめるもの

 この舞台には、舞台を印象的にたらしめる要素が満ち溢れている。

 登場人物の一人、アリスというこどもは、僕は未見の「Here Come The Angels!」からの、引き続いての登場人物らしい。料理に対して、もって生まれた才能を与えられている人間として描かれる。
 発表された年代から影響を受けたとは思えないが、トラン・アン・ユン監督の映画「ポトフ 美食家と料理人」という映画を思い出させる。タイトルからは、ある種の俗物趣味を想像させる作品なのだけれど、この中で「美食家と料理人」はけして、主従の関係を描かない。料理人という優れた技術を持った個人と、その才能を理解する美食家という個人との、対等で敬意を抱き合う関係が描かれるのである。それは、さまざまな意味で、作品の作者と受け手との理想的な関係を思わせる。何かを送るものと、それを受け取るもの。それが、主従の関係になってしまえば、送られたものは単に「消費されるもの」と堕してしまう。けれども、対等な関係性の中で送り送られる関係性が成立すればお互いに敬意を払い合える関係性が生まれる。
「庭」の中のアリスは、そうした独自の才能によって世界と対等に渡り合うという役割が背負わされている。

 物語の背景の、社会制度の崩壊には、こどもたちの中に現れ始めた現象も語られる。周囲とのコミュニケーション能力の低下から始まり、物理的に食物を受け付けられなくなるものが現れ、肉体的な活動が冬眠に近いぐらい衰えていく。そうした時代を生き延びた一部のこどもの背に、角のような突起物が生え、大きな翼へと成長する。これらの一連の過程の中で、多くの生命が失われていく。さらに、自然の食物を受け付けられず、工場でつくられたものしか口に出来ないこどもたち。こうした描写は、おそらく作者にとってどうしても描かざるを得ない内容が、観念的なものではなく、むしろ自分の生理的な実感を伴ったものであることを伝えてくる。
 自分の肉体の感覚として排除される要素を描写しているということは、非常に重要なことである。
 そうしたこどもの全てが一様な存在ではないというのに、均一なものとして扱う研究施設へと送られる。そうした全ては個々人である。当然、苦しみを受けるであろう。(具体的には描かれない。) やがて彼らは施設を脱走し、誰からも保護されることはなく、老人たちを敵視するように至る。彼らは作中では、ノラという名で描かれる。既に指摘したように、この物語の中では、同一グループ内の人間が同じ価値観を持っているように描かれない。むしろ、仲間とも見える集まりの中での、個々の意見の齟齬が描かれる。その上で、ノラが老人らを敵視する背景が描かれる。この描き分けが、とても魅力的である。
 老人を狩りの対象と見做している、モク。
 逆に、老人への敬意に価値があると主張する、ピヨ。
 他人への敵意を保ち続けないと自分を守れないと思いこんでいる、ハナ。(厳密には、彼女はグループの一員ではないとされている。)
 そうして、ハナに対して無思慮に追随してしまいながら直感的な感覚を持つ、シロ。
 それぞれの心の在りようが、とても切ない。それぞれの気持ちが、微妙にすれ違い、誤った判断を生んでいく。それぞれのやり取りの中には、実はすれ違ったままの、埋め切れない空白が横たわっている。

 こうした、個々の登場人物の背景に対する緻密な設定は、他の多くの登場人物にも共通している。しかし、それらについて詳述していくことは、かえって作品の全体像を見失わせるであろう。


4.物語は何を指し示すか

 そうした、夥しい情報を提供する舞台表現の中で、僕がとても印象的だったのは、「わからない」という台詞である。
 人間は、弱く頼りない存在であるからこそ、自信ありげに未来への道を指し示す相手に出会うと、追従しかねない。けれど、この寓話的な物語の中では、「わからない」という言葉が、的確なキーワードとして用いられる。

「わからない」。そうした認識は、自分が何を描こうとしているのかを模索している表現者にとって、共通の課題ではないのかと、僕は(きわめて主観的に)考えている。というか、世界に明確な「正解」などないから、描くという行為に憑れた人間は表現活動を続けているのではないだろうか。
 舞台「庭」の中で、絶対的な価値観は否定されていく。けれど、観客を投げ出している訳ではない。むしろ、「わからない」という言葉を口にする他はない世界の中で、何処へ向けて人間は歩いていくことができるのかという方向性を模索する。
 しかし、「わからない」というそれだけのことを、口にすることが、どうしてだか憚られる世間様というのも存在する。ある意味で、そんな「はばかり」が世界を疲弊されているのではないかと、僕は考えている。

「わからない」という意識を、僕は大切なものだと思う。
 けれど、「わからない」という意識に作者は甘えない。それは、「判断ができない」という、無責任な発想とは無縁のものなのであるから。

 舞台の最終段階で、こんな台詞が語られる。「ヤーガン、セルクナム、タイノ、アラワク、ニブフ、イテンメン、ロマ、ロヒンギャ、ウイグル、プーリー、マサイ、キクユ、アイノ、ジャパニ、」これらの名称に関する詳述は、あえてしない。価値観を対象化し、不確かなものとして描く舞台の中で、こうした台詞が明確にされる。
 価値観が、舞台の中で幾度かパロディ化され、反復された後で、この言葉が発せられる意味は大きい。

 サクリファイスという言葉がある。
 世界が、何らかの犠牲によって救われるという発想を伴っている。

 けれども、誰かが「犠牲」となることで保たれる世界という発想そのものが、どれだけ病的な存在であろう。ミヒャエル・エンデの描いた戯曲「ゴッゴローリ伝説」では、そうした犠牲は、世界が病的な光を帯びることとして描かれていた。(あるいは、中世の奇蹟譚をベースにしている「奇跡の海」や「ダンサー・イン・ザ・ダーク」といった、ラース・フォン・トリー監督の作品群での、奇跡譚賛美の物語の換骨奪胎。)

 描くことの意味を、誰もが見失いかけている時代に、脚本を書いた日疋氏は、迷いの中で新しい指針を示そうとしているのかもしれない。

 僕は、そうした行為をとても価値があることだと、そう受け止めている。

 僕が実際に観た舞台への感想は、ここで終える。以下、余談である。


最後に

 少し話題は飛躍するかもしれない。
 人は生きていると、それまでの処世術だけでは受け止めきれないことと出会うと思っている。僕よりも年長の世代にとっては、チリの大地震や、伊勢湾台風であっただろうか。僕が大人になってからは、9・11テロや、東日本大震災(書きだすときりがないので、この二つのみ例示)など。
 そうした中で、「絶対的な価値観」への強い疑義を抱いてしまった僕が、錯綜していながら模索し続ける、こんな表現はとても好いなと、そんな気持ちをおぼえた作品の紹介でした。あれこれの事情により、まとめるのが遅くなったのは、不徳の致すところとしか言いようがないです。

二〇二四年 一二月 二八日 
二〇二五年  一月 二六日 





奥主榮