「わが地名論」連載にあたって
詩の中に地名を書くこと。その意味を探ること。これは僕自身の詩集に関わりながら展開する「わが地名論」。この連載を通して〈地名とは何か〉〈詩とは何か〉を考えてゆく。
過去の記事
「あなたの言葉は・・・」かわいあやの
あなたが書いた
宛名のない手紙に
わたしの名前を
書き加えてもいいですか?
そうしたら
手紙の中で風に揺れる
貴方の言葉は
真っ白に冷たくなって
やがて溶けていくのでしょう
春になっても何も変わらない
土の上を歩いて
わたし今すぐあなたに会いたい
あなたの服をまさぐって
下腹部に手を当てたら
ほんのすこし体重をかけて
教えてあげる
ここがあなたの言葉のお墓だよ
わたしが植え付けたの
ユリのお花の球根のような
形をしているのよ
「八面六臂」 西村太一
近所の面白いワルが、お仕事に勤しんでいるって。重要な店をやっているようなのですが、そのワルまで大きな仕事を抱えているようで、どうしても1名、力が欲しいという話しが流れていた。確かその方のお父様が八面六臂であとの力の育成をしていらっしゃるらしい。小社、当社、弊社で言うのなら、当社かな。まるで縁の無い方だけど、明日はえぇーっと、土曜日、お嬢は仕事は休みでも、店の受付のお仕事関連、これから暫く間をどう弥縫策を打つのか。どうやらその会社様も、歯車がうまく回りそうだ。お迎えです。
休憩が済んだらデモンストレーション頑張って。
明るくなってからでもやって下さらないと。
僕のこの原稿は、かなり偏って視点から描かれているということを、僕は自覚している。また、誤謬に基づく記述もあるだろう。ただ、これまで日本のポップ・ミュージックに関しては、音楽に関する視点からのみ語られ、周辺的な文化やスタジオやバックステージのスタッフを含めた考察というのは、余りされてこなかったように感じる。そうした事情に関して、僕が特別に詳しいわけでもなく、けれども未踏の大地に鍬を打ち下ろしていくことで、何かを残していけたらと願っている。
僕自身は1950年代の音楽状況をリアル・タイムで経験していない。けれど、その時代についても語ろうとしている。
虚言癖の爺とそしられてもしょうがない。
淡々と事実が時間軸に沿って映し出される
録る側の演出的な意図はなるべく省かれているように感じる
まあ確かに、それがドキュメンタリーというものかも知れない
けれどもドキュメンタリー映画とて、観客が物語を見やすいように最低限の誘導があるはずだ
無編集で全部放り投げるわけではない
その境目がどの辺なのかなというのが、自分がドキュメンタリーを観る時の一つの指針だ
「自分自身のだらしなさ」奥主榮
僕が好きな作家さんがいる。まだ若い方なのだけれど、創作の世界というのは単純なもので、描き手の年齢も肩書きも関係はない。僕にとって「好い」と思える作品を描く創作者が、僕にとっては価値のある作家なのである。その作家さんを見ていると感じることがある。ある種の魚が泳ぎ続けることを止めると呼吸ができなくなるように、もしも誰かから描くことを止められてしまったら、息が詰まり死んでしまいかねないのだろうな、と。
...
「詩のプロって?」奥主榮
なんだか、一生の間に何回もくり返し付き合わされる話題というものが存在しているようだ。
たとえば、「ウルトラマンは、どうして最初からスペシウム光線を使わないのか」といったシロモノである。言ってみれば、テレビ番組のルーティンのお約束ごとなのであるが、この話題を持ち出してくる方は、どうしてだか自分が大発見をしたような勢いで声を大にする。
正直、「その話題はもう、何度目かの付き合いなんだよ」と言いたくなるのだが。
「叙事詩「海の時代へと」(連載第三回)」奥主榮
PART 3 ユタカとトシキ
一 ユタカとトシキ(1)
トシキと出会う以前の
ユタカの物語
「展望」大井悠平
少し曇った朝だった。
間も無く晴れ渡るであろう空模様。
天気予報はつつがなく、
未来の展望を明らかにする。
少しだけ、愚かしいことをしてみたい、
そんな朝でもあったのだ。
時の流れで忘れてしまう、
そんな程度の愚かなことを。
ゆめゆめ思うな、その愚かさを
自分が永遠に持ち続ける、と。
皆したり顔で賢くなった。
皆当たり前のように賢くなった。
間も無く晴れ渡る空の下で、
展望豊かな未来の前で。
必要があって、自分の詩を生成AIに朗読用に英訳してもらった。サイトを開き、軽い挨拶と説明のあとで、日本語で書いたものをぽいっと投げると、一瞬で英訳してくれる。英語は得意ではないのだけど、そもそも複雑ではない詩だったのもあり、すっきりと読みやすい、過不足ない英訳のように思えた。ざっと音読してみると、二ヶ所だけ読みづらい箇所があり、それを伝えると今度は、「ネイティブでなくても発音がしやすい全訳」を返してくれた。なんて気が利くのだ。数日のあいだ細かい箇所をやりとりして、段々と良いものになっていく手応えがあった。あぁ、これはまさに、AIと仕事をしている。最後の方など「良い朗読になりますように!」と労ってくれたりもして、わたしは普段ひとりで詩を書いたりイベントの企画をしているので、これが刺さった。
「信じる人」 荒木田慧
駅前に
信じる人が
立っていた
信じるものがある人は
どうして皆
うすい銀いろにひかってみえるのだろうと
不思議に思う
信じるものがある人の
一種 思いつめたようにかたくななその色を
私は
とてもきれいだと思った
「猫舌くんの後始末」ヒラノ
興味無い、食べられないのだから、あと道に迷ったうえに店に到着出来ない
「クラクションに寄せるオード」是石
クラクション(以下、本品)は、他者への直接使用を前提としておりません
以下の対象への使用が推奨されます
・風
・信号
・曇りガラス
・無人のバス停
・煙突から漏れる黒猫の尻尾
・夜空から落下し、胃袋に溜まったウイスキーで膨れる月
・土星の環、あるいはそれに似た冷凍ベーグル
・その穴に似たブラックホール(※吸音性良好)
「『三匹の仔豚』の件」奥主榮
子どもの頃、「三匹の仔豚 ブー・フー・ウー」というテレビ番組を、よく見ていた。(タイトルの表記は、違ったかもしれない。
幼い頃だったので、内容はほとんど覚えていない。けれど、ただ一回だけ、強く印象に残った回があった。
「叙事詩「海の時代へと」(連載第二回)」奥主榮
PART 2 トシキ
一 トシキ
幼かった時分から
何度、父親に叩きつけられたか
それが トシキの人生の第一歩
成長するにつれ
制圧できなくなる息子を持て余し
ますます父親は荒ぶれて
やがて家を飛び出し そうして
トシキは母に疎まれるようになった
お前さえいなければ
お前さえいなければ と
母は何度も言葉にした
「Natural Born Power」稀月真皓
Empowered women? 力を得た女性だって?
「わが地名論」連載にあたって
詩の中に地名を書くこと。その意味を探ること。これは僕自身の詩集に関わりながら展開する「わが地名論」。この連載を通して〈地名とは何か〉〈詩とは何か〉を考えてゆく。
「セブンティーン」 高田拓実
鼻に管通し臥床に横たはるシェインの胸に在るはキリスト
*シェイン/Shane MacGowan(THE POGES,THE NIPS)の一枚の写真
「人間の言葉」湯原昌泰
おい、湯原、一緒に小便行こうぜと誘われれば、自分の小便に自信があるんだなぁと羨ましく思い、
おい、湯原、そんな遠くにいないで隣りに来いよと言われれば、自分の吐く息に不安がないのだなぁと思う。
「衰弱の根に手向ける」タタクーク
これは殺し合いなのだ。他所の喧騒や頭の中の様々を殴り殺し、その返り血を引き摺りただ奥へ奥へ進むただそれだけの様なのだ。
少年の尻をなでる時のような気持ちで話す。
お前の連れ立った犬を俺は軽トラで轢く。轢死。
お前とお前のペットは薄汚い泥の白い軽トラに轢かれて死ぬ。
田の緑と朱の夕日のせいで盛大にドラマチックにされたお前の死。
日差しはお前の死体ではなく血を撥ねた白を映す。
お前の作業着に見合う労働を教えてやる。
伝えた言葉で潰れた喉の吐く血でそれを染めろ。
まだ足りない。
お前の言葉は体を突き破り声にならないただの音になる。
夕暮れに懐くな。
お前には勿体ない。
情緒に逃げる暇があるなら咆哮で俺を汚せ。
子供の頃の淡い夢にそれを引き摺った今の人間の幸せそうな顔を見ろ。
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