「叙事詩という試み」奥主榮
僕がまだ十代だった昭和の頃には、欧米に存在するような重層的な大作は日本人には作れないという言説が横行していた。スポーツ界での例となるが、例えば短距離走の世界では、ある時期まで、日本人の体形では百メートルを十秒未満で走ることは不可能だと言われていたのと同じような根拠である。(この神話は、精神論的な肉体鍛錬手段を廃し、合理的なトレーニングを採りいれることで崩壊した。) 創作の世界では、日本人が生み出す作品というのは、短歌や俳句のような一行詩の韻文や、周辺五十センチの世界を描く私小説、あるいは掌編小説的な短い物語が適しているといった発想だったのである。
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