「フォークやロックについて僕が知っているいくつかのこと(10)」奥主榮

2024年12月24日

   3 とりあえず、URCというレコード会社について語ろうか(4)

 前回、ザ・ディランⅡ(セカンド)というフォーク・グループ(この呼称が適切なものかどうかについては、余り自信がない)について触れた。基本的に、大塚まさじ氏と永井洋(ながいよう)氏という二人で活動を行っていた。
 いくつか、書き落としたことを。ザ・ディランⅡのURCからのファーストアルバム「昨日の思い出に別れを告げるんだもの」は、ダブルジャケットであった。二枚目の「SECOND」は、あがた森魚氏の「乙女の儚夢(ロマン)」と同じような三面鏡のようなジャケットであったと思う。参加ミュージシャンが一堂に会した写真が掲載されていた。笑顔のメンバーの中で、友部正人氏だけが何か憂鬱そうな表情であったのを覚えている。(記述が曖昧なのは、実はこの原稿、ほとんど記憶に頼って書き進めているからである。十数年前に、持っていた蔵書やレコードの大半を処分してしまったのである。)
 バンド名にⅡ(セカンド)とあるのは、それ以前にザ・ディランというバンドがあったからである。大阪にあったディランという喫茶店に集まっていた常連客達が、固定メンバーという 形は採らずにやっていた集まりらしい。中心人物であった象狂像氏(西岡恭蔵氏)が脱退後、前述のメンバーでつくられたのがザ・ディランⅡ。脱退した西岡氏は、ソロ・シンガーとしてデビューする。
 前回に書いたように、後には矢沢永吉氏を含め、数多くのミュージシャンに楽曲を提供していく。前回、矢沢氏の名のみを出したのは、作詞者としての提供作品が多かったからである。

 西岡恭蔵氏は、URCからはレコードを出していない。ただ、ザ・ディランⅡの多くの楽曲は、西岡氏の手によるものである。なので、ここで少し、西岡氏についても触れておく。
 西岡氏の作品の中で、最も多いカバーを生んだのは、「プカプカ」であろう。「俺のあん娘はタバコが好きで/いつもプカプカプカ/体に悪いから止めなって言っても/いつもプカプカプカ/遠い空からやってくる/幸せってやつが あたいに分かるまで/あたいタバコ止めないわ/いつもプカプカプカプカ//俺のあん娘はスイングが好きで/いつもデュビデュビデュー/下手くそなスイング止めなって言っても/いつもデュビデュビデュー/あんたがあたいのどうでも好い歌を/涙流すまで 分かってくれるまで/あたいスイング止めないわ デュビデュビデュビデュビデュー//俺のあん娘は男が好きで/いつもHUHUHUHUHU/おいらのことなんほったらかしでいつもHUHUHUHUHU/あんたがあたいの寝た男たちと 夜が明けるまでお酒飲めるまで/あたい男止めないわ/いつもHUHUHUHUHUHU//俺のあん娘は占いが好きで/いつもスタスタスタ/よしなって言うのにおいらを占う/いつもスタスタスタ/あんたとあたいの死ぬとき分かるまで/あたい占い止めないわ/いつもスタスタスタ」(西岡恭蔵、「プカプカ」を全行引用)

 歌詞を読み、誰かのカバーで耳にされたという記憶のある方もおられるかもしれない。ちなみに、僕は六文銭のメンバーの一人であった及川恒平氏による歌で中学生の頃(1973年頃)に最初に聴いている。また、題名は忘れたがデビュー当時の桃井かおり氏が何かの映画の中で歌っていたのも印象に残っている。物語自体は他愛もない設定で、桃井氏が演じる主人公の、兄と恋人がそれぞれ、暴力団員と警察の職員で、自分が結婚できないかもと思ったときに桃井が飲んだくれて、この歌を歌うのだけれど、このシーンは割と雑な作りの映画の中で、際立って素晴らしかった。
 数多いカバー・ヴァージョンを生んだこの曲は、ジャズ・シンガーの安田南氏をモデルにして作られたと言われている。ディランⅡのヴァージョンで副題として「みなみの不演不唱(ブルース)」とされているのは、そうした背景があってのものである。ちなみに、西岡恭蔵氏のアルバム「ディランにて」に収録された際には「赤い屋根の女の子に」という副題が付けられている。この「赤い屋根」が、何に由来するのかは、僕も知らない。あるいは、西岡氏が安田氏と出会った、1971年の全日本フォークジャンボリーのステージが、赤い屋根であったのだろうか。(当時のフォークジャンボリーの記録の中で、視覚的な装置について残されたものは皆無といっても良いぐらいに少ない。写真もほとんどがモノクロである。僕には、確かめようもなかった。)

 後に詳述するが、全日本フォークジャンボリーは1969年から1971年にかけて行われた野外コンサートである。よく誤解されるのだけれど、アメリカでの大規模な野外コンサートであったウッドストックを模したものではない。調べれば分かるのだけれど、ウッドストックの開催よりも一週間ほど早い。ただし、アメリカでの野外コンサートには、1968年のモンタレー・ポップなどがある。日本では、フォークのイベントとしては、フォークジャンボリー以前に、フォークキャンプというイベントも行われていた。
 三回行われた全日本フォークジャンボリーは、徐々に規模を大きくしていった。その過程を、当時音楽に興味がなかった小学生であった僕は、実際には見ていない。ただ、例えばイベントの規模が大きくなるにつれて、初期には確かに存在したナニモノかが失われていく姿というのに、僕もまた今までの人生の中で、さんざん立ち会ってきた。コミケットしかり、文学フリマしかり。青山ブックセンターで開催されていた時期の文学フリマを知っている僕には、現在の大規模イベント化した東京文フリには、とても違和感をおぼえるのだ。同時に、そうした自分を、時代についていけない老害と思うだけのわきまえもある。ただ、気に入った相手との対話が楽しめた文フリと、夥しい参加者の中で埋没しないようにあれこれの宣伝を仕掛けてくる文フリのどちらが好きかと問われれば、前者であると断言できる。最近の僕は、文フリでしか会えない方と再会できるのを楽しみにして、足を運んでいる。東京での開催回数は多く、年に二度。七夕の牛飼いと織女のような逢瀬を楽しみにしている。ちなみに、その方の作品が好きになった理由は、媚びやコマーシャリズムが一切無く、周囲を拒まなければ生きていけないような思いを発散していたからである。
 自己認証願望の強すぎる創作よりは、大向こうに受けることよりは自分をきちんと理解してもらいたいと行われる表現活動の方が、僕は好きである。

 またしても、話が脱線してしまった。
 徐々に規模が大きくなった全日本フォークジャンボリーは、大手のレコード会社も注目するようになっていった。広告野球の試合で跋扈するスカウト担当のような方々も現れるようになった。そうした変遷を、僕は否定しない。しかし、当時の硬直した思想が尊重される状況の中で、規模が大きくなりすぎた全日本フォークジャンボリーは、開催会場でステージ乗っ取りという突発事態を発生させる。
 商業主義とは無縁であったはずのフォークのイベントが、新人スカウトのような場として利用されていくようになっていった。それは、音楽のイベントを楽しみに集まってきた方々の気持ちとは相反するものであった。
「討論」と称する、一方的な弾劾。生硬な主張。そうした中で、演奏者にとっては自身の生命よりも大切な楽器が危険になるような状態が生まれたという。
 そうした中で、安田南氏は観客を怒鳴りつけたらしい。
「甘ったれるな!」と一言。誰かが、この瞬間にフォークジャンボリーは終焉を遂げたと書き残していた。この記述をどこで読んだのか、誰が記したのかも僕は覚えていない。しかし、とても印象的な記述であった。
 西岡氏は、そうした安田氏の姿も含めて、いろいろと目にしていたはずである。その上で、「プカプカ」を作った。
 そうした背景を知り、安田氏の歌声を聞いてみたいと思った十代の頃。いつでも、レコードを探せば耳に出来ると思っていたのだが、いつの間にか音源は手に入れられなくなってしまった。(あるいは、僕の探し方が悪いのか。) しかし、この当時の安田南氏の歌唱を堪能できる映画がある。

 僕が中学生の頃に、新聞の映画評を読み、とても観たいと思った映画があった。藤田敏八監督が、東宝で撮られた一作である。初期のにっかつロマンポルノで活躍された監督であり、この連載でも過去に触れている。その一作は、「赤い鳥逃げた?」である。新聞による映画評によると、この映画の終幕には、当時耳目を集めていた連合赤軍によるあさま山荘立てこもり事件へのオマージュが込められているということであった。(この事件に関しては、現在二元論的な結論を求めるネットでの発言の中では、「過激な連中が起こした愚劣な暴力行為」とされることが多い。ただ、フォークシンガー友部正人氏の「乾杯」や、ノーベル賞作家大江健三郎氏による「洪水は我が魂に及び」など、この事件をベースにした作品は数多く発表されている。今でも向かい合わないとならない、非常に多くの要素を内在した事件である。最近、夭逝した映画作家であった相米慎二監督の「ションベンライダー」を再見したのだけれど、ラスト近くのシークエンスもまた、連合赤軍事件を踏まえたものではないかと感じた。)

 閑話休題。

「赤い鳥逃げた?」という映画の中では、安田南氏の歌が使われている。この当時に撮られた映画の大半に漏れず、アメリカン・ニュー・シネマの影響を強く受けた作品である。この映画の中で流れる、「赤い鳥逃げた?」は、閉塞状況の中での解放感を謳いあげる、非常に素晴らしい歌唱である。発表から十年近くを経てから、高田の馬場にあったパール座という名画館で初めてこの映画を見たとき、安田氏の歌の素晴らしさに魅了された。ちなみに、この映画のスタッフには、ある意味で幻の映画監督とされる長谷川和彦氏も参加している。「青春の蹉跌」や「宵待草」への脚本執筆という参加も含めて、長谷川監督は「青春の殺人者」と「太陽を盗んだ男」の二作しか残していない、という文言に対して、僕はとても抵抗を感じるのである。脚本家や助監督、そしてプロデューサーとしての活動も含めて、作家として残された足跡はとても大きいのではないだろうか。
 ちなみに、「ブラックスワン」(僕は未見)などで知られる、ダーレン・アロノフスキー監督の映画「π(パイ)」には、数秒間であるが、この「赤い鳥逃げた?」からの引用がある。元作品のカラーから、モノクロに変換されていたので、最初は引用だと気がつかなかった。歩行者天国で、おもちゃの鳥のねじを巻いて、赤い鳥のおもちゃを空に飛び立たせる映像。しかし、色彩は失われている。最初は、単なるオマージュかと思って見ていたのだけれど、途中から完全な引用だと気がついた。
 どんな思いがこめられていたのかまで、憶測で記述はしない。

 さて、西岡恭蔵氏の話に戻そう。

 代表作とされる「プカプカ」以外にも、魅力的な作品が数多くある。そうでなければ、楽曲提供などできるはずもない。
「街の君」という歌も、僕の好きな作品である。歌の途中、一人称が「私」から「僕」へと変わってしまうことが唯一の瑕疵である。この曲は、あがた森魚氏もカバーしている。「冬の寒さに疲れた私」が、「羽根を休める小鳥のように」歩いていて、「トーキー風の街の中」の出会った少女と一緒に「空っぽの朝のバスに二人だけで乗りたいと」、そう語られる。そうして、「万華の鏡の花の中を/透き通って飛ぶ君」とともに、「街を通り抜け」、「シャボンの中に抱きすくめ 空っぽの空に遊ばせる」。(西岡恭蔵によるオリジナルの歌詞をコラージュして、引用している。)
 この歌の中には、「君が欲しい」というフレーズが登場する。「プカプカ」で描かれている、男性にとっては不定形に見える女性の在り方というのは登場しない。あくまでも、男性にとって愛らしい対象としての「君」が描かれる。そうした愛玩動物のような異性の描写を、僕は嫌悪している。それにも関わらず、僕はこの歌が好きなのである。最後の、「お前だったんだね」というフレーズは、母性や自分を甘やかしてくれる対象としての女性の讃美とも、現在では受け止められるかもしれない。
 しかし、別な見方をすれば、疲れ果て、打ちのめされたときにこそ、自分の思いを寄せるパートナーの存在を求めているようも思える。無論、この歌を最初に聴いた高校生の頃には、そこまで深い意味など意識していなかったのだけれど。ただ、自分が描く作品世界に対して、正確な理解を示してくれる対象への憧憬というのは、創作者というのはどうしても抱いてしまうのではないだろうか。

 おそらくは、初対面の相手に対しても心を許してしまう女性像、一歩間違えれば無防備なだけの危なっかしい女。あるいは、いたいけもない少女。僕は、そのどちらのイメージ(男性にとって都合の良い女性)を否定する。けれども、そうした認識を踏まえて、当時の西岡恭蔵氏を思うにつけ、こんなふうに考えるのだ。
 西岡氏は「男性の支配を逃れた女性」を描こうとしていたのだろうな、と。ピカソが描く、醜悪なミノタウロスを導く、蝋燭の光を掲げた少女のような。「サバイビング・ピカソ」のような映画を撮られる画家であったにも関わらず、僕はピカソのミノタウロスの画像に、自分を投影することができる。

 なんだか、話があちこちに散らばっている。ただ、何だか「問題意識」というテーマと、実際に様々な問題に直接向かい合っている立場の方々との気持ちのずれが、僕には気になるのである。
 社会問題が取りざたされる時代になってからも、女性の地位向上というのは実質的になされていなかった。どれだけ偉そうに御高説を垂れる方々がおられようと、理論武装した政治主張の背景に、性差別が厳然として存在していた。

 僕は、西岡氏が歌い描いた「街の君」という歌が、とても好きである。この歌もまた、数少ないかもしれないが、カバー・ヴァージョンを 生みだしている。浮遊感の自由度は、「ぷかぷか」に劣らない。
 そして同時に自分に対して問い詰めるのである。そんな浮遊感を奪うような、愚かな男性という側面を、僕自身は内在していないのかと。
 僕は、今の妻を含めて、これからどんなパートナーと出会おうと、「あたいの寝た男たちと 夜が明けるまで 自由に語る」などという立場になる気など毛頭もない。あなたはあなたで、自分の判断のままに好き勝手にしてくれと思うだけである。そうしたことまで関与しようとするほど、僕は傲慢ではない。
 僕は、誰も支配したくない。

 そして、この言辞は二面性を含んでいる。
 夫婦関係という制度から解き放たれることは、同時に一方が他方を支配するという関係性を断ち切る同意を行うということである。別に、相手が寝た誰やらと語り合う必要性など、微塵も存在しない。
 けれど、そうした相手からの解放を改めて宣言しなければならない表明とは、どれほどの価値があるものなのであろう。
 僕は、僕よりも上の世代、それなりに必死になって新しい時代を切り開こうとした方々が、どれだけの血を流してきたかを目撃してきた、最後の世代かもしれない。そして、同じ時代を生きてきた方々は、目撃したものから、微妙に目を逸らす。

「自由で奔放な女性を受け入れる」という表明ほど、差別的な立場は存在しないであろう。偉そうに上から目線で居るお前こそが、人を見下すクズ野郎ではないかと、そう思ってしまうのである。けれど、そうした価値観は所詮現在からのものである。
「周囲からは身勝手とされる立ち位置を保証した方々がおられた」という事実は、それがどれだけ男性目線の傲慢なものであったとしても、一つの風をもたらしたのだと、僕は思っている。個人の尊厳というものは、本来だれかに「認められる」ようなものではないのである。

 それにも関わらず、人は誰かに認められるという願いを持ち続ける。

 そのことを笑うことも、否定することも容易い。

 しかし、個人という存在がそうした危うさの上に成立しているものだと認識することもまた、一人の人間の自己形成においては、とても大切なことなのである。
 自分が矛盾の中に生きていて、そのことによって多くの偏見を自分の中に抱えている。そうした、「世界はどうしようもないね」みたいなことは、何度でも書いておきたいなと思う。

「自分が何かを許されていることの意味。」そのことについて考えつめていないと、とても大切なものをいつの間にか失ってしまう、そんな気持ちが僕の中にあり、だからこそ描き続け、語り続けたい。
 鬱陶しい行為かもしれないけれど。
2024年 10月 6日




奥主榮