「母」吉田 一縷

2021年11月09日

https://youtu.be/Zm3-5d967sg (朗読音声)


「母」

母は眉頭を少し上げた表情で私の顔を見つめた後、笑った。
精一杯の笑顔という顔だった。

私はその座り心地の良くない椅子にドカッと座りこみ、母が受付を済ませたのか済ませないのかもわからぬまま全てを遮断しようとした。

「これ書かないかんと」
問診票を手渡された。
診察室に通された私は一から説明しようとした。
けれども医者は何処か、いや、確実に先を急いでいる様子で、深く訊き正そうとしない。言葉少なに

「食べていますか」
「寝ていますか」
「性欲は」

質問しているのか、ひとりごとを吐いているのかわからない抑揚で 言葉を発する。
母も泣き、ふたりして泣いた。
医者は表情ひとつ変えず、ティッシュの箱を机のうえにツゥーと滑らせた。
扉を開けた。
空間把握のできていない椅子の並べ方をした無機質な部屋で中年女がひとり立っていた。
それでも勇気を振り絞って、すがるようにやってきた、この場なのだからと、経緯を話そうとすると涙が止まらなくなった。


病名が欲しかった。

そうすれば楽になると思った。
しかし、睡眠導入剤を処方されただけで、ビルの三階にあるその狭いクリニックと呼ばれる病院を出た。
私は足を鳴らすように家路を急ぎ、母はちょこまかと必死についてきた。
冬の寒い時期だった。処方された薬をひと息で飲み、ひとつしかない毛布を頭から被りフローリングの隅で丸まった。
「もう寝るが?」
夕方の四時だった。

田舎の高知から上京してきた母は、理由は違《たが》えど、折角の機会、行きたい喫茶店や植物園があったと思う。
テレビで東京の番組を見ては、なんでもノートと呼ばれる百円ショップのノートに下手な字で店名を書きつけては妄想を膨らませて楽しんでいた。
「八王子にね、帰蝶庵っていう古民家カフェがあるがやと。今度東京行ったら、そこ行ってみたい」
そんなことを嬉しそうに話した。

私は来る日も来る日も寝て過ごした。一週間後、母は
「今日も起きんが、ちょっとは一緒に出かけてや」
と小さな声で云った。
そしていつものように何処かに散歩に出かけた。
ちいさなズックを履いて。

母の声がする。
「カムルッキね。カムルッキね」
手を握られた感触がした。

カムルッキネ、カムルッキネ、カムルッキネ、カムルッキネ、カムルッキネ.........

扉の閉まる音がした。
涙がツゥーと流れてきた。






吉田一縷