「畑の3月」へちまひょうたん
ポケットに種を入れて、一週間ずっと温めている。
「ナスやトウガラシなどの熱帯出身の野菜の種は、湿らせたガーゼに包んで体温で温めたら発芽しやすくなる」
と本で読んだので、試しにやってみているのだが、果たしてこんなんで本当にうまくいくのだろうか?
トマトはだいぶ前に育苗ポットに種を播いて陽の当たる縁側に置いているのだが、気温が低いせいか、なかなか芽が出ない。2週間近く経って最近ようやく、か細い双葉が顔を出し始めた。
去年は苗づくりに失敗した夏野菜たち、今年も先が思いやられる。
耕作者の春は慌ただしい。
夏野菜の種まきと育苗。そのための苗土づくり。ジャガイモの植え付け。サツマイモの伏せ込み。他にも、春に種まきや植え付けをしなければならない野菜は多い。ゴボウ、ホウレンソウ、シソ、バジル、シュンギク・・・。ほんとうは2月のうちに土づくりも種まきの準備も終わらせておきたかったが、バンドで作った新しいCDの発売作業で忙しく、畑のことは後回しになってしまった。音楽も畑も、どちらも私にとって大事な営みなのだが、気持ちよく両立するにはまだまだ課題が多い。
大きく出遅れて、畑の3月。
ある日いつものように畑へ行くと、何か様子がおかしい。よく見るとあちこちで畝の土が滅茶苦茶に掘り起こされ、掻き回されていた。「まさかイノシシに入られたか!」形跡から察するに、おそらく体の小さなウリ坊が、畑を囲う柵のほんのわずかな隙を見つけて、地面を掘って侵入し、好き放題に暴れ回ったのだ。
土の中に貯蔵しておいたニンジン十数本は、よほど美味しかったらしく、影もかたちもなくなっていた。一方、種取り用に埋めていた3本のダイコンは、ご丁寧にもすべて一口ずつ齧られた状態で地面に捨てられていた。こちらはあまり美味しくなかったらしい。そばには立派なフンが落ちていた。
「まあそんなこともあるさ」と虚脱して空を見上げるしかなかった。数日たってから、ようやく気をとり直してウリ坊の侵入経路を特定し、竹と針金をがっちり組んで隙間を塞いだ。まだ畑に作物が少ない時期でよかった。ジャガイモやサツマイモの収穫の時期にイノシシに侵入されるのだけは、なんとしても阻止しなければならない。深呼吸して、齧られたダイコンを元どおりに埋めなおした。
そのまた数日後、畝を修復するために土を掘り起こしたら、全滅したかと思われたニンジンの生き残りが5、6本、出てきた。
「おー、おまえら、無事だったのか!」歓喜と安堵から思わず叫んでいた。
ふきのとうの季節を迎えるのとほぼ同時にウグイスが鳴きはじめる。野生のものたちは正確に、季節や天候に反応する。人間だけが鈍感だ。
赤ん坊ウグイスが親ウグイスに鳴き方を教わっているのか、端整な鳴き声とぎこちない鳴き声が交互にきこえる。
ほ――――――、ほけぴきょぺきょ。
ほ―――、ほっ、ほっ、ほけきぺきょ。
山に囲まれた畑はとても静かで、鎌で草を刈りながら、鍬で土を耕しながら、ずっとウグイスの鳴き声をきいている。しかしいつのまにか頭の中では、ゆうべYouTubeで視た漫才や落語がリピート再生されていたりする。
初めて植えてみた菜の花は食べ頃を迎え、採っても採っても次々と美味しそうな花茎が伸びてくる。収穫しそびれたハクサイは、水木しげるの漫画に出てくる妖怪のような仰々しい姿で花を咲かせている。ニンニクや大麦は日に日に背丈を伸ばしているが、うまく実るか結果はまだまだ先だ。ふきのとうの季節が終わり、野草なら今はツクシが摘み頃。山のあちこちで伏せ込まれた原木シイタケが無数に笠を広げている。もうすぐ桜の季節。これからさらに忙しくなる。