「フォークやロックについて僕が知っているいくつかのこと(11)」

2025年01月23日

   INTERMISSION(休憩) (1) AMラジオ

 URCのことについての話題が長く続いているが、少し別の話題も織り交ぜておこう。(次回以降もまだ、URCの話は続きます。)

 昔、ラジオやテレビのアナウンサーというのは、それほど速くないペースで標準語を使って話していた。個性よりは、むしろ正確な日本語とされるコトバを用いることを求められていた。これは、テレビが普及する前の、ラジオしかなかった時代からのことであると思う。
 その背景にあったのは、明治維新以降の近代国家即席栽培に伴う、国内の矯正統一である。旧約聖書に描かれるバベルの塔の物語は、言葉の通じない異民族たちが一つの大きな建設事業に関わった末の混沌を描いたものだという説がある。そうした事態を避けたかったのであろうか。もともとはそれぞれに独立採算制であった江戸時代の藩を単位とした集まりが、かつては「くに」と呼ばれたのに対して、大日本帝国という大きな一つのまとまりを形作ることが求められた。そうした中で、言葉の統一という政策も推進された。
 そうした中で、江戸時代には形の上では自治権を認められていたアイノの方々や、独立国家として扱われていた琉球の方々の言葉は奪われていった。それはやがて、日本が覇権の手を伸ばしていったアジアの国々へも及ぶ。

 古い日本映画の音声や、玉音放送(終戦の詔勅)の録音などを聞いていると、そもそも日本人の声の出し方そのものが、1960年代ぐらいまでは今と違っていることに気が付かされる。言葉を発していく速度や抑揚、発声方法そのものが異なっているのではないかと感じることがある。
 1959年生まれの僕は、古い時代の、単語一つひとつを丁寧に発生していくアナウンサーの声を聞いて育ってきた。しかし、そうした話し方とは別の語り方が現れてきたのが、1960年代の後半、僕が小学生の高学年になる頃である。この頃に中高生だった方々は、受験勉強をする際に「深夜放送」というAMラジオの番組を聞いていた。当時の価値観では、文字通り寝る時間を惜しむことが賛美されていた。家族が寝静まった時間帯に勉強をする受験生が多かったのである。(それは同時に、親の監視の価値観から解放された時間帯を確保できたということでもあった。)
「深夜放送」の、ラジオ局の審査によって選ばれた若いアナウンサーたちは、ディスク・ジョッキーという名称で呼ばれた。今は作家やクレヨンハウスの主催として知られる落合恵子氏なども、そうした一人であった。また、オーディション以外でのデビューをした若い歌い手が起用されることもあった。
 彼らは、訓練を受けたプロの語り方ではない、もっと自然な話し方で、聴取者に向かい合った。ときには、スタジオと聴取者の一人を電話でつないで対話するといったスタイルで、若く不安定な気持ちでいる方々の声に耳を傾けた。これは、放送を通して聴くという相手を身近なものに感じさせた。(昭和の漫画家、手塚治虫氏の「空気の底」シリーズの一作である「カタストロフ・イン・ザ・ダーク」は、今の読者からは分かりにくい内容かもしれないが、こうした時代背景の中で描かれた。)

 僕は、そうした世代からは少し年齢が若い。小学生の頃に、深夜放送というものが流行っているということは、子ども向けの漫画雑誌の記事で知った。漫画を読んでいる大学生がいるということが、ニュースとして報道されるような時代でもあった。でも、ディスク・ジョッキーは僕自身の身近なものではなかった。それでも、ラジオ放送のAM局の、深夜の時間帯以外の番組も、徐々にそうした影響を受けて、肉声で語りかける形式のものが増えていった。ラジオ番組の夜七時台にも、若い聴取者を狙った番組が登場した。ラジオ局のスタジオでのライブを、そのままリアルタイムでオンエアしていたりした。ときには、デビューしたばかりの歌手が、そうした番組で生演奏を披露したりした。
 中学時代の僕は、デビューしたばかりの荒井由美氏が「十二月の雨」と「私のフランソワーズ」の二曲だけを歌うために、番組に呼ばれて歌ったのを覚えている。軽いノリで新人の歌手として新井由美氏が紹介されるという、今からは、想像もできないような番組内容かもしれない。

 当時流行っていた、「公開録画」という言葉は、今の若い方々には通じるのであろうか。
 1970年代の半ばになっていく時期、ラジオ番組が放映する音源を確保するために、聴取者を招待するという形で、コンサートを行う。それを編集して、電波でオンエアする。
 葉書をラジオ局宛に送れば、会場のチケットが手に入れられた。また、当日に先着順で会場に入れるような企画もあった。中野の丸井の店内に設けられた小さなスタジオからリアルタイムでオンエアするものもあったし、厚生年金会館などで収録されたものもある。日比谷の野音での公開録画もあったような気もするが、もう半世紀も前なので記憶が曖昧である。
 一度、開場時間よりもかなり早く着いてしまい、周辺をぶらぶらと歩いていたら、リハーサルを終えた出演者(たしか泉谷しげる氏や海援隊のメンバーなど)が息抜きに外に出てきたのを見かけた。駆け寄ってサインをねだったりするのは何だかカッコ悪く思えたので、興味がないふりをしながら、そっと後をついて歩いた。今から思えば、この行動の方がよっぽど滑稽である。

 この頃のAMラジオは、結構大盤振る舞いなところがあり、美術展のチケットも、ラジオ番組の企画で手に入れることができた。1970年代の初めに、新宿の伊勢丹美術館(デパート内にあったが、今は閉館)が開催した「アンディ・ウォーホール展」のときは、チケットどころか牛の絵のポスターまで入手することが出来た。
 中学生のガキがどうしてウォーホールを知っていたかというと、片岡義雄氏の訳したジョン・レノンのインタビューで読んだのだと思う。小野洋子氏の映画について語ったくだりで、ウォーホールの映画のことが出てきたのかもしれない。このころはまだ、ウォーホールの「悪魔のはらわた」や「処女の生血」などが発表される以前で、「エンパイア」などの実験的な映画が知られていた。展覧会は、とても刺激的だった。僕でも顔を知っているような有名人の顔に塗り絵をすることがこんなに面白いのかとか、人をくったような変な絵を見ることができる心地よさを初めて知った。
 また、ウォーホールの発言として知られる、「そのうちにどんな人間も15分間だけ有名になる時代が来る」といった言葉も印象的であった。テレビを代表とするメディアが拡大していき、作品やアーティストそのものが消費されるものとなりつつある時代の中で、世界が直面している現実を象徴する言葉のようにも感じられた。その伝で言えば、ネットによる情報網が張り巡らされた現在は、そうした15分限りの時間や、同じ価値観を共有する間だけの認識を普遍的なものと勘違いした人間に満ち溢れている時代なのかもしれない。最近公開された映画「まる」(荻上直子監督)は、そうした社会の戯画化でもあるように思える。
 ウォーホールは、ルー・リード率いるロック・バンド、ベルベット・アンダーグランドのデビューとも関わりを持っている。そうした中で、ファースト・アルバム「ベルベット・アンダーグランド&ニコ」のアルバムジャケットも手がけている。そこに貼られたバナナのシールを剥がすと、チンコの絵が描かれているという話を中学時代に級友から耳にした。後年、再発されたこのアルバムを入手して、わくわくしながら半分剥がしてみたら(なんだか全部剥がすのはもったいなかった)、単にバナナの中身が赤い色で描かれていただけだった。メタファーとしては上等だけれど、ロックのアルバムジャケットのチンコということであれば、カナダのロック・バンドであったステッペンウルフ(映画「イージー・ライダー」で使われた「ワイルドいこう」で有名)の何枚めかのアルバムのダブルジャケットを開くと、見開きで印刷されていた写真の方がずっと過激であった。チンコそっくりの車がでかでかと掲載されていたのである。ちなみに、後年ベルベット・アンダーグランドのファースト・アルバムについて、どこかの音楽雑誌で「誰も剥がす勇気の持てないジャケット」といった評が出ていたことがある。しかし、好奇心が先に立つ僕のような人間もいるのである。(丁寧に貼り戻したが。)
 もともと絵画を見たりすることに抵抗はなかったが、この頃から僕は、いろいろな美術に興味を持っていった。学校の授業で英語の先生が口にした竹久夢二氏とか、音楽雑誌でロックのアルバムの批評文として触れられた画家の作品、そうしたものに興味を持ち始めた。当時の音楽雑誌の批評は、音楽以外の知識が豊富な方々が書かれていることもあり、僕にいろいろなことを教えてくれた。マグリットやムンクといった画家の名前を、僕は当時の代表的なプログレッシブロックバンドであった、イギリスのピンクフロイドに関する文章で知った。アルバム「おせっかい」の中の歌詞、「空間にずっと停まっているアホウドリ」という表現とマグリットの「ピレネーの城」のイメージの関連性、またアルバム全体の曲調が、画面から音声へのイメージを喚起するムンクの作品に対して音楽から視覚的な連想を呼び覚ますといった指摘であった。
 今にして思えば、AMラジオというメディアからいろいろな種もまかれていたと思う。当時はまだ、落語番組も健在で、今では放送が不可能なような描写のある噺も、普通にオンエアされていた。落語の中での、今では差別的とされかねない表現というのは、一概に非難されるようなものではないと僕は思っている。具体例を挙げることさえ批判を浴びかねない時代なので、詳細についてはここでは触れないが。ただ、落語の中に現在の視点から差別的と判断されるような描写が出てくるとしたら、演目そのものを非難するのではなく、むしろそのような偏見が生まれた背景について考察していく方が余程有意義であると、僕は思っている。偏見は、今の時代を生きる僕の中にも確かに存在しているものだから。

 閑話休題。(ちなみに、この四字熟語には、「かんわきゅうだい」という堅苦しい読み方と、「それはさておき」というくだけた読み方があり、僕はいつも後者のつもりで書いている。)
 僕が一番よくラジオを聞いていたのは中学生の頃で、もう既にフォークは「金になるもの」として扱われていた。なので、公開録画なども番組コンテンツを充実させるためという目的もあった。しかし、そうした商業利用の為だけによって成立していたわけでもなかった。
 終身雇用制という道から外れれば「敗残者」扱いされた時代。企業に入ってしまえば、上意下達という価値観に無条件に従うことばかりが常識であった社会。そうした中で、旧態依然の姿勢では組織そのものが内部崩壊していくという危機感を抱き、同時にメディアという存在の背負う社会的な責任も自覚し、おそらくはそうした価値観を上とも共有しながら、だからこそ自分の属する組織に新しい動きを導こうとした意思。
 そうしたものに、現在の僕は深く頭を垂れたい思いがある。
「正しい日本語や、その発声」という、ある意味では特殊技能を持ったエリート集団から、より身近な存在として語りかけるという在り方を許容する選択。そうした転換には、単純な利益追求という企業倫理を超えた意志が存在している。伝達媒体としての自分らの存在意義を問い詰め、無謀とそしられようとも舵を切っていこうとする強い意志。その背後にある、凛とした矜持。
 大きな組織の中で、そうした気持ちは小さなものでしかなかったかもしれない。ブームになり、金になる何かを見つけては、それに便乗した企画を立てていく連中も確かに存在する。ただ、そうした相手に対する拮抗の中で、悶え苦しみながら生まれていった企画は、奇跡のような場所も生み出した。
 ある放送局が開催した、新人発掘為の公開録画(関東大会)の招待券を、中三のときに僕は、級友から譲り受けた。もう高校受験が近い時期。級友は入場券を手に入れたものの、「今はそれどころではないでしょ」ということで、手放すことになったあらしい。能天気な僕は、そんな現実的なことなど忘れて、入場券代わりの葉書を握りしめて会場に駆け付けた。まだ無名の方たちの演奏。僕は夢中になって耳を傾けていた。何組かのゲストの(プロミュージシャンによる)演奏が間に入っていたと思う。そうした中に、フォーク・グループ時代のRCサクセションがいた。ラジオなどで聞き覚えのある曲が何曲か演奏された後で、突然「僕の自転車の後ろに乗りなよ」という歌い出しの曲が流れ始めた。それまでのRCの、何だか苛立っているような曲と異なり、切なく優しい歌。僕にとっては、今もとても大切な一曲である。

 そういえば、高校二年のときだったか、大瀧詠一氏の公開録音があった。1975年だったろうか? はっぴいえんどが解散して、二年後ぐらいの時期であった。僕にとって、大瀧氏は偉大と感じられた方だったので、チケット欲しさに大量の申し込み葉書を送った。運が良ければ、チケットの一枚が得られるかもしれない。
 けれど、僕の見解と世間とのそれにはズレがあったらしく、送った葉書の枚数だけのチケットが送られてきた。僕にとってのスーパースターは、当時はまだそれだけ人気が無かったのである。日程は、通っていた高校の中間考査の日程と重なっていた。家族からは、「行くな」と猛反対をされた。しかし、僕は事前に試験対策の勉強をして、強行突破するつもりであった。僕は、1973年のはっぴいえんどの解散コンサートにも行っている。そのぐらい、僕にとって参加メンバーは、「神」であったのだ。
 しかし、どうしてだか当日になって発熱した。(このライブは、後日ラジオで、一部をカットされてオンエアされた。) ちなみに、このときに受けることが出来なかった高校の定期考査の、「生物」の試験範囲は、「遺伝」に関するものであった。高校時代、いろいろな悩みを抱えていた僕は、細胞核内の遺伝子の配列が、どのように転写され、細胞質の中で蛋白質を合成していくかという過程に、とてつもない感動を覚えた。分子レベルでの遺伝について学ぶことは、とてもわくわくすることであった。なので、このときの定期考査が受けられなかったことは、とても残念であった。
 また、話が脱線してしまった!

 例えば、この大瀧詠一氏のライブや、細野晴臣氏、鈴木茂氏、松任谷正孝氏、林立夫氏によるユニット、キャラメル・ママは、NHKのTV番組に短い時間とはいえ、誰か登用された。誰か、彼らの演奏に価値を見い出していた担当者がおられたのであろう。(あ、AMラジオから話題が踏み出してしまった。)

 いろいろな音楽がある中で、はっぴいえんどの曲を聴くというのは、「マイナーな音楽を聴いている」というラべリングをされることでもあった。連載の後の方で詳述するが、当時はレッド・ツェッペリンに代表されるような、ハード・ロックの全盛時代。この辺りの詳しいことは、いずれまとめるつもりである。
 ただ、ここで触れておきたいのは、世間の趨勢とは無縁に、自分の価値観で無名のバンドに価値を認めた方々がおられたということなのである。
 放送局には、まだ権威とやらが存在した時代。表現者を「選別」するという傲慢さが許容された時代である。そうした「選別」の基準は、ここに書くまでもない内容である。「金になるか?」。 しかし、金にならない可能性のある表現者に価値を見い出し、取り上げた方々もおられたのである。

 なんだか、そういう状態って好いなと、僕は思ってしまうのだ。
 統一見解とかマニュアルとか、そうしたものに個人の意見が左右されてしまう時代の中で、今よりも縛りははるかにきつかった時代に、「でも、これが好きなんです」みたいなことを言い張った方々がおられた。そうした、木漏れ日のようなラジオ放送を聞いては、僕はいろいろと考えていた。
 僕は、子どもの頃に、正解ではなく、たくさんのヒントを、いろいろなアーティストのみならず、それを支えたバックステージの方々によって示されていたのだと、今ではそう思っている。
 たとえば、かまやつひろし氏や、小室等氏が番組の「顔」として、はっぴんえんどを支持していたのを覚えている。けれど、そうした活動を支えた、番組のスタッフの方々がおられた。
 僕は、そうしたことが、もの凄い事なのだなと考えている。そうした活気を生み出した背景は、確立された組織であり、その中で働くサラリーマンたちであった。そうした方々が、名前の出る「アーティスト」や「看板社員」を起用し、不特定多数にメッセージを送った。そのとき、聴取者の一人ひとりはスタッフにとって、単なる顧客ではなかったろう。聴き手を個々の人格を持った人間として意識していたのである。
 僕の中学時代に、(とても失礼な言い方かもしれないが)落合恵子氏は、半ばアイドル的な位置づけの、文化放送所属のアナウンサーであった。でも、僕は彼女の担当する番組の中で、自死したマリリン・モンローが書き残した詩が紹介されたことを鮮烈に覚えている。その、悲痛な文言を、ロウティーンの僕は、慌てて手元に書き記していた。僕にとって、自分の心に食い入ってくる詩を紹介される方として、落合氏は記憶された。数年後、作家として放送局を離れる。僕の妻は、むしろ作家としての落合氏を認識している。
 職業上、不本意に色づけられる自分のイメージ。でも、それを超えて現れてくる、主張せざるを得ないもの。このジレンマは、現在解消されたものなのであろうか。
 僕は、そうではないと思っている。

 今の時代にも続く、隠蔽を暗黙の内に強要されるような、そんな背景を負ったものではないのだろうか。

 ときどき、創作者としての自分が、自分のいる場所から渾身の作品を提供しているのかと自問することがある。とても空疎な存在として、自分を意識する。でも、だからこそ描き続ける。
 自分の意思で。
2025年 1月 3日






奥主榮