「おおかみなんてこわくない」鷲井せつこ
スリランカで涙を売って商売をしていたという男から
ハッピーアワーで320円のレモンサワーを奢ってもらい
お通しにでてきたキツネのコブ締めをつついて一杯やった
男からは燻した革製品の匂いがして
嗅いだ瞬間、叔母の家の洋服棚を思い出したので
こころの中で勝手にオバ・チャンチという名前をつけて昼過ぎの暗い居酒屋を共にした
オバ・チャンチはニコニコしながら居酒屋の店員と国籍不明の言葉で会話し
下ネタか質の悪い冗談でもいっているのか、アジア系の女店員は笑いながらチャンチを叩くふりをした
「涙は日本では吐いて捨てるほどあるが、スリランカでは貴重なのだ」
チャンチは瞬きもせず、カピカピに乾いた絵の具のような目でそう言った
「つばとか、血や精液なんかの動物のジュースを信仰するグループがあり、若者を中心として今人気がある
でも排泄物を偏愛する団体との交流は断っていて、両者はそれぞれ何となくけん制し合っている
そんな中で、涙だけはお互いの通貨のように機能しているのだ
それがよちよち歩きの少女であっても、老人であっても、涙の一滴も流せばたちまち人が集まって
買わせてくれ、買わせてくれと群がり収集がつかない」
フンフンとてきとうに相槌を打っていると、チャンチはおれに飽きたのかグラスをぐっと空けて店員の方をじっと見ていた
おれは、すられないようにバッグを挟んでいる足の力をゆるめた
チャンチがドリンクを注文するときに一言二言(ひとことふたこと)言うだけで女店員はゲラゲラと笑いながら目を潤ませていた
「君は笑わせるのがうまいが、泣かせるのもうまいんだろう」
酔っているふりをしてそう言うと
チャンチはおれに目を合わさずに
「そうね」とだけこたえた
壁にもたれて酎ハイをゆっくり飲むチャンチは
巣穴でスヤスヤと寝息をたてる狼のようで
少しぼさぼさの毛並みを撫でてやるように
しばらくお互いに黙ったまま飲み続けた