「きみはジュネを抱えて」#4完 我妻許史
千春は小説を書いていた。ぼくは彼女が書いたものを読んだことはないけれど、自由でとりとめもなく、非合理的なものを書いていたに違いないと思っている。彼女の住む家に行ったとき、ぼくは彼女の思考の一端に触れた。
彼女の住む一軒家は井の頭公園の脇という最高の立地だった。彼女の祖母が亡くなったのを機に、一人で住むようになったらしい。家は大きく、そのまま小津安二郎の映画のセットとして使えそうなぐらい立派だった。
「古臭い家でしょ?」
「いや、雰囲気があるよ。そういえば両親は?」
「親は練馬のマンションに住んでる。あんまりここが好きじゃないんだと思う」
「マンションなんかよりこっちの家のほうがずっといいと思うけどな」
ぼくは持ってきたデヴィット・ボウイのレコードとポータブル・プレーヤーをテーブルの上にセットする。そして、レコードを聴きながらアルバイト先でもらったガメイ種で造られたフルーリーというワインを飲んだ。
「私、学生が嫌いなんだ」
千春は唐突にそう言った。
「どうして?」
「だってバカみたいじゃない?」
「うん、まあそうかもしれない。でも、未来のことを考えたら学校ぐらいは、とか思ったりもするじゃない」
「それってどういうことなんだろう。私にはわからない」
「未来の選択肢を広げるってことさ。ほら、就職とかさ」
「それ、本気で言ってるの?」
そう言って千春はフランス産のタバコを取り出して口にくわえて火をつけた。
「本気というか、どうだろう。わからない」
「私は合理的なことってあまり信じてない」
「じゃあ、千春は何を信じているの? 本をたくさん読んで小説を書くということだって、同じことなんじゃないの?」
ぼくはちょっとだけムキになって千春に言った。
「本を読むことや書くことに理由なんてないな。強いて言うなら、たまたま。......みんな偶然の力を信じていない気がする」
彼女の言う「みんな」には当然ぼくも含まれているはずで、そう思うと、少しだけ胸が痛んだ。ぼくはせわしなくセブンスターに火をつけた。
「現実では、偶然です。たまたまです。なんて言うと相手にされない。会社の志望動機を聞かれて、偶然です、なんて言わないよね? 本当は偶然かもしれないのに。だから私たちは嘘をつく。御社の社風に惹かれて、みたいな、思ってもいないことを言わないといけない。嘘を言うほうが正しくて、本当のことを言う人はどんどん現実から外れていく」
「......本当に御社の社風に惹かれたのかもしれない」
「それはもっとバカじゃん」
そう言って千春は笑った。ぼくもつられて笑った。
「まあ、半々じゃない? 本当に社風に惹かれたとしても、もう半分は嘘なんだよ。今朝食べたトーストだって、トーストじゃなければならなかった理由なんてない」
「たまたまトーストがあったから?」
「かもしれないし、食パンを買うときに、明日の朝にトーストを食べたいな、と思ったのかもしれない。安かったから、というのが理由かもしれないし、冷蔵庫のジャムを消費したかった、という理由もあるかもね。ちょっとずつが本当で、ちょっとずつが嘘なのかも」
千春はそう言って赤ワインを口に含んだ。デヴィット・ボウイは「ウェイターを呼び止めてカミソリを食った」と歌っていた。
「私は理由なんかない、と思いたい」
彼女が言いたかったことは、直感を信じろ、ということなのかもしれないし、理由に固執するな、ということだったのかもしれない。どちらにせよ、彼女の言っていることは子どもっぽかったし、大人になってから必ず苦労するだろうな、とは感じた。ぼくとしては、嘘の世界に留まっていたほうがずっと楽に感じてしまう。本当のことはぼくにはつらい。
ぼくたちは、ぼくの持ってきたレコードを聴きながらワインを飲み、タバコを吸った。ぼくは千春の隣で軽い気持ちになっていった。それはアルコールの作用なのか、千春によるものなのかはわからなかったけれど、現実を離れたような心地いい時間だった。
当時交際していた恋人が嫉妬深かったせいで、千春の家に行ったのはそのときの一回だけだった。恋人はヒステリックに、もうあの女と会わないで、とぼくに言った。ぼくはレコードや本の貸し借りをしていただけだ、と説明したけれど恋人は許さなかった。
ぼくは千春に漠然とあこがれのようなものを感じていたけれど、二人の仲は深まることがないまま、借りていたカミュを返すこともなく千春はアルバイトを辞めてしまった。交際していた恋人は「好きな人ができた」と言ってロックバンドのギタリストと同棲を始めた。ぼくは輸入食品の会社に就職した。
自明であると思っていた物事が崩れ去ったときにぼくはどうするんだろう?
それなりの大学に、それなりの会社、身体は健康で、貯金もまずまず。ぼくにしては上出来な人生だと思う。もしぼくが、大学を卒業できなかったり、就職活動に躓いていたり、病気になっていた場合は、これ以下の人生だってありえたはずだ。だけど、これ「以下」というのはどういうことなんだろう? 「以上」というのは? いったい何と比べて?
ぼくに必要なものは無駄なものなんじゃないのか? 例えば音楽を聴くこととか。レコードは今までぼくを助けてくれた。それは間違いない。レコードを聴くことに意味はあるのか? おそらく意味はない。だから人生には意味がない。だからこそぼくの人生には現実味がある。そういうことじゃないのか?
ぼくはカミュの『異邦人』を引っぱり出してくる。ページをめくると、しおり替わりにしていたコンサートのチケットが落ちてきた。十年前のフジロックのチケットだった。――十年という時間はどういう時間なんだろう。長い時間のような気もするし、変わらない自分のことを考えると、そうでもないような気もする。千春の十年はどんな十年だったんだろう。今もあの場所で小説を書いているのだろうか? 書いているならそれはどんな小説なんだろう。どんな人物が登場して、その登場人物たちはどんなことを話すんだろう。ぼくはそれが知りたいと思った。この状況だからこそ千春の思考に触れてみたいと思った。
ぼくは千春の家を思い出す。どでかい本棚にびっしり並んだ本と、テーブルの脇に乱雑に積まれた無数の本たち、薄い唇にくわえたフランス産のタバコに、灰皿替わりにしていたインスタントコーヒーの空瓶。千春の部屋の匂いと、千春が話す声の響き。
ぼくは洗面所で石鹸を泡立てて髭を剃る。伸びた髪の毛は後ろになでつけ、キャップを被る。黒いシャツに着替えて、リュックにカミュを入れる。
玄関の扉を開けると外は雨上がりの匂いがした。空には見慣れた宇宙があった。ぼくは夏の空気を吸いこんで、ゆっくりと息を吐き出す。そして暗い路上に向かって歩き出す。
井の頭公園の近くまで来る間に、年齢不詳の男とすれ違った。すれ違う瞬間、唾を飲み込む音が聞こえるんじゃないかと思うぐらい、ぼくと男は息を殺しながら交差した。お互いに相手の緊張感が手に取るようにわかった。ぼくたちは目を合わせず、それぞれの目的地に歩いていった。街は静寂に包まれていた。街全体が追悼を表明しているような暗さだった。コンビニエンスストアやファミリーレストランが閉まっている風景はこの世の終わりを思わせた。清涼飲料水の広告は色あせ、政治家が拳を握りながらマニフェストを掲げる姿は物悲しかった。
暗い井の頭公園をゆっくり歩いていると、遠くに人の声が聞こえた。ぼくはとっさに茂みのほうに身を隠す。人の声に交じって、野球のノックのような打撃音と、大勢で砂を蹴っているような音が聞こえた。ぼくは不穏な何かを感じ取って、音が聞こえるほうから遠ざかった。
記憶を辿って千春の家を探し出したとき、ぼくは別種の緊張に襲われた。腕時計を確認しようとしたけれど、暗すぎて時刻は確認できなかった。首と肘に汗が伝っていくのを感じる。身体からは嫌な匂いがした。
ぼくは決心して古い扉をノックした。しいんとした空間にぼくが叩いた扉の堅い音が響く。夜のざわめきを肌に感じる。暑さは感じなかったけれど、汗は止まらなかった。ぼくは間違いを犯しているような気がした。ここでぼくは何をやっているんだろう? 扉の奥から物音が聞こえた。物音の主はゆっくりとこちらに近づいてきて扉を開けた。
そこに立っていたのは、ぼくと同じぐらいか少し上ぐらいの年齢に見える男性だった。髪の毛は伸びていたけれど、髭は綺麗に剃られ、スマートに見えた。男性は何かを推し量るようにぼくを見た。ぼくはうまく言葉が出てこなかった。
「......きみは誰だろう?」
男性は無表情に言った。
「千春さんの――」
「ああ、千春の友だちか。悪いけど千春はいないんだ」
「そうなんですか」
「ヨーロッパに行ったんだよ。知らなかった?」
ぼくは首を振って、リュックからカミュを出して男性に差し出す。
「長い間、この本を借りたままになってしまって......」
「もしかしてこれを返しに来たの? こんなときに?」
彼は可笑しそうに笑った。そして、ぼくから本を受け取って「上がっていく?」と言った。
男性は千春の兄だった。雰囲気は似てないけれど、切れ長な目や薄い唇は千春を思わせるところがあった。
「大変な時代になっちゃったね」
そう言って千春の兄は、ぼくの目の前のテーブルに缶ビールを置いた。彼はロックグラスにウィスキーを注いで口に含んだ。燻したような香りがフワっと漂う。
リビングはぼくが一度来たときに比べてガラッと変わっていた。家具や家電が機能的に配置され、シンプルにまとまっていた。
「きみは千春の恋人だったって感じはしないね」
ええ、まあ。というと、千春の兄はテーブルの缶ビールを指さして、それ飲んでいいよ、と言った。ぼくは礼を言ってビールを飲む。冷えたビールは脳が痺れるぐらいに美味かった。
「千春が急にヨーロッパに行くことになって、俺がここに住むことになったんだ。二年ぐらい前だったかなあ。戦争の始まる前だね。あいつ変わってるでしょ? 急にヨーロッパに行っちゃうんだもんなあ」
「彼女はまだ書いているんですか?」
「書いていると思うよ」
「ということは小説家になれたんですかね?」
「......どうなんだろう? 千春はただ書いていただけなんだと思う。出版とかそういうことはあまり考えてなかったんじゃないかな。まあ、今みたいな状態じゃ出版もなにもあったもんじゃないけどさ。よその戦況次第じゃ日本も参戦なんてことになるかもしれないし。それか、もう参戦しているのかもな。そのための情報統制や外出禁止なんだろう、きっと」
ぼくは千春の兄に勧められてタバコを吸う。久々の喫煙で脳がくらくらとした。この痺れがぼくはなんとも嬉しかった。彼は、バーにあるような重厚感のある灰皿をぼくと彼の中間にそっと置いた。灰皿変わりに使っていたインスタントコーヒーの瓶はさすがに処分したらしい。
ぼくは千春の兄が語る、中国がインドに侵攻した、という話や、アメリカが軍事介入してロシアが中国と手を組んだという話をぼんやりと聞いていた。だけど、ぼくに「本当のこと」は知ることはできないだろう。
ぼくは千春の言葉が聞きたかった。千春はカミュの『異邦人』をどういう風に読んだのかが知りたかったし、千春は世界をどういう風に見るのかが知りたかった。
ぼくは千春の兄に突然の訪問を詫びて家を後にした。玄関でぼくを見送りながら彼は「自由がないのはつらいよな」と寂しく笑いながら言った。その通り。自由がないのはつらい。だけど、自由が与えられたとしても、ぼくたちは自分から不自由に向かって進んでいるように思えてならなかった。
ぼくは井の頭公園のベンチに座って、暗闇に浮かぶ池を眺めた。周りに人の気配はなく、葉が揺れるカサカサという音だけが聞こえた。自然は風を吹かせ、その原理で葉を揺らせていた。勝手きままに。多分、理由もなく。
井の頭公園に住む動物たちはどうしているんだろう? ふと、そんなことが気になった。ぼくは大きく仰け反って空を見上げる。夜空を雲が動いていた。多分、西から東へ。いや、東から西か?
なんでぼくは大人なのに世界の成り立ちを知らないんだろう? どうやって今まで生きてきたんだろう? これからぼくはどうするんだろう?
ぼくは立ち上がり、歩き出す。ぬるい風を置き去りにして。後に第三次世界大戦と名付けられるだろう日々の一日が終ろうとしている。