「つよくないよわくないかたち」を想う――『確かめるすべのない両想いが死ぬまで続いてく』ともちゃん9さいの詩集について/ヤリタミサコ
スポークンワードの良さは、その場のライブでの即時的な感動があることだ。言葉そのものの力に加えて、人や環境の影響を受ける場合もある。紙の詩集の良さは、書き手がどんな状況であっても、書かれた言葉は読み手の心中で再現されることだ。もちろん、その良さの反対で、ライブで面白くないこともあるし、紙で読んでも生き生きしない言葉もある。
ともちゃん9さいが亡くなって4年の今年、ぬくみりゑが編集した『確かめるすべのない両想いが死ぬまで続いてく』という彼女の詩集が出版された。私はこの詩集を手に取るまではともちゃん9さいのライブしか知らないので、スタティックにしーーんとしてしまった言葉たちがどれほど彼女の声を伝えるのだろうか?と思う部分もあった。
が、開いてみると、あのふっくらした笑顔と力のある声、頼りなさと開き直りと、肯定と否定といったアンビバレントなともちゃん9さいの存在感が一杯に詰まっていることがわかった。優しさと意地悪さと、主張と消極と、自分への愛と憎悪と、人はみな矛盾した感覚を持ちながら、バランスを取ったり一方を忘れたり無視したりしながら人生の時間をやり過ごしていく。ともちゃん9さいは、その狭間が詩のテーマだったように思う。
「川」という作品では、少量の悪意やネガティブな自分を否定せずに、勇気をもってすくい上げている。「神様を時計でつぶして流れ出た液体はとうめい/色があったらいくらかましなのに/にごって先が見えなければもっといい」と思う書き手は「私はあらゆることをみとめることができない」と世界に通告する。「絵の具の二番目の水」や「帰りの風景ばっかり」というフレーズは、自分を取り巻く世界が自分の優先度を低く取り扱っているというやるせなさである。「劇的じゃないのがお金をかせいだり電車をがまんすることで/得るものなんだよね」と、無理強いしながら自分に現実を飲み込ませていて、切ない。だからこの詩の最終行は「わすれるよの歌うたって」と、見えない誰かに呼びかけ、つまり、自分自身に現実の切なさを忘れなさいと命じている。実際にはそれができないから、そう自分に言い聞かせるのだろう。
割り切れないモノやコトを、概念とかペルソナとか役割など強引に何かのハコのようなものに片付けていくのが生き延びる知恵かもしれない。でも、ともちゃん9さいはそれをしない。「目を開いたまま見えてなくて/電源やら時間やら肉体やら愛やら夢やらカラカラカラ四面楚歌/そうそう四面楚歌/少しずつ違うともちゃん数名に囲まれてる感じ」でありながら、その分裂した自分を弱めに受け入れている。「夢がないけど、生きてていいすか」「目的がなくなっても、だまるな」(「ともちゃんのファンタジー」より)と。そして、「だっこ、/だっこユアセルフだっこ、」(「パンダベアアンドオルカ、だっこ!」より)と、自分で自分を抱きしめるよう自分に促す。自己肯定(セルフエスティーム)への意志なのだが、疎外された世界で一人自分を抱きしめる姿を自分に強要しても、寂しさは消えない。
「きみどり」では、「誰のせいじゃなくて/かなしい/誰かのせいを/わたしにして、明日あえる//つよくないよわくないかたち」と、「誰か」と「わたし」、「つよい」と「よわい」を行ったり来たりする、断定できない感情を自分の流動性として捉えている。「ちゃんとみて/そらしてもちゃんとみて」と自分に命じる、そのスタンスに、ともちゃん9さいの個性=苦悩があるのだと思う。自分をいたわる方向性はわかっているのだけれど、自分で自分を暖める方法はわかっているのだけれど、それでも、自分を大事にする方向に進めない自分。「そらしてもちゃんとみて」みようとしているが、そらしてしまう自分もいる。そのギャップの深さに、時に苦しめられたのだろう。
腐乱ちゃんと恨乱ちゃん(ともちゃん9さいとぬくみりゑの二人)というユニットの朗読が私は大好きだった。世界を呪詛したい気持に共感する。それを表現するのは勇気がいるのだが、このユニットはなかなかに勇ましかった。無茶苦茶にねじれてこんがらがった怒りと苦闘しながらようやく言語にたどり着いた二人の、汗だくな心の闇に触れたことを思い出す。私自身もこの闇の地続きに存在することを感じたから、声に出してもらってすっきりとうれしかった。「つよくないよわくないかたち」を意識し続けたい。