「ともちゃん9さいおたんじょう会2023」 古溝真一郎
ともちゃん9さいがなくなったことをスパンから電話で伝えられた翌日は、子の七五三用の記念写真をスタジオで撮る日で、私とぬくみりゑはひと晩泣き腫らした目で消え入りそうな笑顔のまま家族写真に収まった。ともちゃんのことは、子へはもうしばらく日が経ってから伝えた。
主催していた詩の合評会に、ともちゃんはなくなる前年の12月に参加してくれて、次回があれば絶対また参加したいと言った。6月のはじめ、次の合評会をするはずだったのを、仕事の忙しさなどのために一旦延期にしてしまった。もしあの日の前後に合評会をしていたら、新しい詩を書くために、急にいなくなることはなかったのではないか? こんな単純な想像には何の意味もないとわかっていても、考える。
「ともちゃん9さいおたんじょう会2023」と題されたイベントが、いなくなって4年目に行われた。ともちゃんがいた日々をまだ近い過去として思い出すけれども、いなくなってからの時間の重さもしっかりと噛みしめている、4年目というのは、そういうタイミングなのだろう。遠い過去になる前に、ともちゃん9さいの詩集も、ようやく今年つくられる。
イベントが進行するのをみながら、15年前の「寺西幹仁君を送る会」のことも思い出していた。寺西さんが詩学社を廃業して東京を離れる前に、馬野幹さんが主催した送別会だった。当日に寺西さんと連絡が取れず、主役がいないまま会は行われた。翌日、自宅で倒れてなくなっているのを幹さんが発見した。
そこに、主役になるべき人がいない。いないのに、それぞれの人が語るそれぞれの言葉の中から、ありありとその人の存在が浮かび上がってくるのは不思議だ。きっとほんとうの姿など誰にもわからなくて、てんでバラバラに想像しあうしかないその人のことを、私たちはどうにかこうにか語ろうとしている。いまも確かにそこに存在していることを信じて、確かめるように言葉にしていく。
詩を書く誰かがなくなって、追悼詩が書かれたり、追悼イベントが開かれたりするのは、苦手だった。不在になった本人がその中心にいないような気がしたし、人を悼むことはそれぞれの心のなかでしずかに行うべきだと思っていた。けれどそれぞれの私の、心のなかほど覚束ないものはない。その人がいまもそこに存在することのために、きっと私たちはイベントを催したり、関係したりしたい。
「死んでいなくなった人よりも、生きていて二度と会えない人の方がずっと遠くに感じる」と私がいつかどこかで書いたのを、ともちゃんはとてもよく分かると言っていた。ともちゃんは、もうこれ以上遠くに行ってしまうことはない。
「ともちゃん9さいおたんじょう会2023」
2023年8月26日(土)/場所:ひかりのうま
出演者:スパン・馬野幹・モリマサ公・石渡紀美・ぬくみりゑ