みきくんこんばんは 十 すなけちゃん(snake)
広州へ移動しようと考えた私はすぐにいくつかの大学を調べました。
その中で学費が安い広東工業大学に決めました。
寮は到着してすぐに入れるかなど電話で聞いたときに、トイレが様式か和式か知りたいと言ったら「知るか」と言われたことをよく覚えています。
初めての広州。
到着したその日は雨でした。
空港に着いたと同時にどしゃぶりの滑走路が見えました。
寮は大学の正門から歩道橋を渡ったところにありました。
コンクリートの八階建てエレベータは無しです。
部屋にはベッドと机とテレビがありました。
古い手洗いがベランダにあり、ベランダの端にトイレがありました。
トイレは幸い様式でした。
そのトイレにはシャワーがありました。
ユニットバスというよりも、トイレの個室にシャワーノズルがついている感じです。
カーテンが無いので窓に紙を貼りました。
ベッドは木の板でした。
布団が無いじゃん、と思っていると寮周辺にたくさんいるアフリカンの皆さんが手伝ってくれました。
一緒にぞろぞろとスーパーマーケットに行き、生活用品をたくさん買いましたが、その荷物をみんなが持ってくれました。
帰りに近所の肉じゃがごはんを食べました。
敷布団が足りず、木の板の硬さが半端なくて翌日追加で厚めの敷布団を買いに行きました。
寮はねずみと大きなごきぶりがたくさんいました。
蛇口をひねると茶色い水が出て、トイレも黒い水でカビ臭かったです。
出し続けていると透明になりましたが。
入寮してから丸二日掃除をしまくりました。
広東はバナナの木がワサワサあり、マンゴーの木が街路樹で、とにかく植物の葉っぱがでかいです。
落ち葉はヒラヒラと落ちずに、どでかい物がザザーと落ちます。当たると怪我すると思います。
当時はお金が無かったのでスーパーではなく路上の露店野菜を買いました。
それを部屋で煮て食べました。
大体毎日同じものを食べていました。
学校は八割くらいがアフリカ大陸の出身で、それ以外にはアゼルバイジャンやイエメン、キルギスタンやカザフスタン等、欧米人は少なかったです。
アフリカンはコンゴやナイジェリアといった有名国に続いてベナンなど様々でした。
ですから多くの人はそれぞれの母国語以外の共通語としてフランス語を話していました。
アフリカ圏以外の人と話すときは英語になり、店など生活上では中国語を話していました。
つまり中国のアフリカ出身者は母国語、フランス語、英語、中国語を話します。
寮は毎晩お祭り騒ぎでした。
L字に建てられていて内側が廊下になっているので、廊下に出ればどの階も全部見渡せます。
各部屋の窓に電気がついているかどうかで不在かどうかもわかります。
私たちはいつも廊下にいました。
出て行くグループを見つけては、どこ行くのーと叫び、帰ってくるグループがいれば、おかえりーと叫ぶ、楽しい毎日でした。外食の時は行きたい人は一緒にぞろぞろ行き、眠たくなれば部屋で寝る。
誰かの部屋でくつろいだり、そのうち誰も学校に行かなくなってしまいました。
学校の先生は誰も授業に来ない!と寮までやってきました。
生徒の中には恋人を連れてきたり、そのうちに赤ちゃんまでいつの間にか生まれて所帯ができていたり。
人生の中で一番楽しい日々でした。
週末はいつも誰かの誕生日でクラブのはしごをしました。
大勢でたくさんクラブに行きました。
クラブは十二時過ぎてやっと出発します。
準備が遅いのでなかなかまとまって出発できません。
中国語を勉強もしないし使いもしないし、ただただ遊び続けた毎日でした。
あれからみんなそれぞれ元の生活や次の生活に移り、今は真面目に暮らしています。
母国で外交の仕事をしていたり貿易会社を興していたり、あの場所は今も変わらずあるのですが、行ってももう誰もいません。知らない人しかいません。
いつかまた同窓会がどこかであれば、きっとみんな来ると思います。