みきくんこんばんは 一 すなけちゃん(snake)

2021年10月23日

みきくんこんばんは。

知り合ってから二十年以上がたちましたね。
二十年前に鳥取で遊んだあと、三年くらいそのまま広島にいました。
あれから今日まで、どこで何をしていたのか話したいと思います。
鳥取では一緒に漫画を描きましたね。
あの後漫画を持って東京のコミックビームの編集長に会いました。
私が漫画を描く仕事をこの先ずっとするかがわからない、と何とも的を得たコメントをいただきました。
あの編集長は素晴らしいですね。
懸念のとおり、あの後一度も漫画を描くことはなく、どうしたことかスコットランドに行ってしまいました。

あの時この先ずっとやることと言われて考えたところ、好きなことなら覚えるのも楽だし続けるのも楽しかろうと、靴を作ることにしました。
絵も好きだったので、靴のデザイナーになりたいと思ったのです。
どうやったらなれるものかはわからなかったけれど、考えられる順序でいろいろやってみました。
まずは直行で靴の会社の面接を受けたりするも全然だめでした。
当然ながら英語やら中国語やら靴の知識が必要だということで、当時急に仕事に就けるようなものではありませんでした。
で、面接でダメだった理由をクリアすれば良いのではないかと靴の学校へ行ってみようと思いました。
イギリスとイタリアに有名な学校がありましたが、英語圏の方が良さそうなのでイギリスにしました。
ところが、入学条件の英語の試験が通りそうにないので、スコットランドで一年半英語の勉強をすることにしました。

五歳になった子供は幼稚園の年中さんがちょうど終わったところで、意思疎通もできるようになってきたので連れて行きました。
学生ビザを取るための東京のイギリス大使館に面接に行き、スコットランドで英語を勉強するとは訳がわからんようなことを言われましたが、割と一回ですんなりとビザがもらえました。
子供は帯同ビザというものが出ました。
季節は確か三月の終わりくらいだったような気がします。

英語を勉強して試験通って学校に行って、と考えるだけでものすごく寂しく悲しくなりました。
このまま日本で毎日遊んで楽しく暮らしたいですが、そうすると三十歳になったときに何もできなくなるのと思ったので、時間を犠牲にする気持ちであきらめました。
当時のパソコンはインターネットというより、メールを見るのがメインだったので、心を支えてくれるようなものではありませんでした。

ビザは一年なので、三六五日以内で往復できるルフトハンザ航空にしました。
関西空港を出て、ソウルで乗り換え、ドイツのフランクフルトで乗り換えて、エジンバラ空港に着きました。
私は気圧の差に弱く、飛行機に乗るとほぼ同時に意識不明になります。
そのあともずっと眠いので長距離でもあっと言う間に着きます。
さて、エジンバラに着いたのですが、私の姉がスコットランドにいるので迎えに来てもらいました。

姉の住むアロアという町に行きました。
この町はとても不人気で働いていない人が多い悪い意味で有名なところです。
私は姉の家ではなく、歩いて15分くらいの距離の場所で部屋貸しをしてもらいました。
その家は一軒家で高校生のお姉さんが一人で住んでいました。
お母さんはドイツかフランスに駐在しているらしいのですが、お母さんがいなくてもきちんと自分で家事をして学校に行っていたので、高校生なのに自立していてすごいなと思っていました。
家の周りには大きなヤマアラシが歩いていることがあります。
逃げ足が亀のように遅いのでつついて嫌がらせをして遊びました。

さて、これを読んでいる人は私のこともみきくんのことも知らないかもしれないので説明します。
みきくんは山崎まさよしみたいな感じで、いつも楽しそうなにこにこした男の子です。
私は細くて白くて首が長い不健康そうな女の子です。

イギリスに着いた頃は黒と紫の長い髪でした。
まだ腰の蛇の刺青しかない頃でした。
日本ではどちらかといえばもてましたが、イギリスでは全くもてませんでした。
留学先の学校の中国人からはもてていたのでアジア限定のうすっぺらい顔立ちです。

話は戻り、この町アロアは昼からパブが満席です。
生活保護率が高いのでみんな無職で遊んでいます。
太っている人と、薬物関係で痩せている人ばかりです。
英語はスコットランド英語で何言ってるか不明です。
学校が始まるのはまだ2週間くらい先なので、まずは子供の学校へ行きました。

小学校に入る年齢が早いので5歳で小学一年生です。
学校に行くと、すぐ通っていいと言われたので制服を買いました。
制服はスーパーマーケットで制服ぽいのを買えばいいらしいです。
制服専門のお店というのはありません。

アロアにはほとんど白人しかいません。
同級生はアジア人を見たことがないので、うちの子供の髪や目が真っ黒なのが珍しくて仕方がないようでした。
百回以上日本人だと説明したと思いますが、最後まで中国人だと思われていました。
四月はイースターがあり、スーパーマーケットは卵の形のチョコレートだらけです。
よくわからないけれどチョコエッグみたいなクリーミーエッグとかいうのを買ってみたらチョコレートも中身もドロリとしてジャリっとしてまずくて吐き出しました。
珍しいものといえば、道のプラスチックの塊です。
どうやら誰かがゴミ箱に火をつけるらしく、よくドロドロになっています。
スーパーマーケットでは、客がよく開封して中を調べていました。
中身を確かめたいからだそうですが、砂糖だろうとスナックだろうと手あたり次第開封するので、小麦粉売り場は粉だらけだし、砂糖売り場はジャリジャリです。
卵売り場は運が悪いとドロドロです。
掃除をしてしまうとすぐに開封してしまうので、わざと開封済のものが一つは残してあるのが正解です。
ともかくスーパーマーケットに行くと手がべたべたになります。

そんな珍しい毎日はすぐに過ぎて私の学校が始まりました。
学校はスターリン大学というところで、とても大きいところです。
正門をくぐり、道なりに坂をのぼります。
するとバスターミナルがあり、いくつかの校舎があります。
そのうちのメイン校舎の表から入りそのまま裏から出ます。
すると丘が広がり大きな池があります。
橋を渡り、細道を歩いて行くと、左右に学生寮があります。
そこをさらに抜けると丘の一番上に城があります。
私の授業はその城の中の教室です。
正門からそこまで歩いて三十分くらいかかりました。
そこに着くまでに数十匹の鼠色でしっぽの長いリスに会い、兎が走り、湖からはたくさんの白鳥が攻撃的に這い出て追いかけてきます。
暑いとしんどい道のりですが、この地域には暖かいという日はあっても暑い日はありません。
初日は留学生オフィスに行き、入学希望を伝えて、申請書を書いてお金をカードで払っておしまいです。

十人くらいのクラスが4つか5つくらいありました。
日本人とスペイン人と中東人がクラスメートでした。
皆、交換留学生か大学本科入学希望か大学院進学希望でした。

スコットランドでは道端でやたらしゃべりかける人が多く、バスの運転手はよく乗客から飴をもらっていました。
私もよく飴やらバナナやら知らない人からもらいました。
乗客に家はバス停の先を右に曲がったとこだと言われればそこまでバスが行ったりしました。
運転手が初勤務で道が全くわからないときは乗客皆で次は右だとか、バス停があるだとか、教えてあげました。
日本だとバスや電車で知らない人に話かけたら障がいのある人だと思われるような気がしますし、運転手が道を知らないとは苦情が殺到しそうです。

知らないおじさんは目が合うとよくウインクしてくれますが、これも日本だとJRの駅員を呼んでしまうかもしれないくらいの変態になります。
私はこれを書いている今現在、日本で働いているのですが、ありがとうと投げキッスを同時にやると会社の人は固まってしまいます。
そのうち人事部からハラスメント疑いで呼ばれるでしょう。
もっと見知らぬ人同士が仲良く暮らせる社会になったらいいのになと思います。

と、まあ、アロアという町で、子供は小学校に私はスターリン大学に、1年半にわたり滞在したのでした。
せっせと勉強して子供は7歳になり、私は28歳になっていました。

アロアでのある日、次に行く靴の専門学校の入学案内を聞きに行ってみることにしました。
ノーザンプトンという靴ばかり作る町でスコットランドではなくイングランドのロンドン北部にあります。
スコットランドからだと高速鉄道でも6時間もかかります。
節約のため高速鉄道ではなく在来線で行くことにしました。
夜十時ころに乗り朝方五時くらいに乗り換えをしなければなりません。
ところがうっかり寝てしまったため、起きたら六時すぎでした。
外の景色は変わらず丘ばかりで、とても焦りました。
というのが、予定では九時ころに到着し、さっさと用事を済ませて、十二時頃の電車で帰る予定だったからです。
昼前に到着してしまえば購入済の帰りの切符をどうしたらよいやらわかりません。
電車の中で車掌さんを探して事情を説明したら、次の駅で降りて、何番で何行に乗ればそれでも着くとのこと。
あれは結局どこだったのかわかりませんが、そこまで行き過ぎてもなかったようです。

とある目的地の駅に到着し地図を頼りに靴のカレッジに行き、入学希望を告げて担当者と話をしたり入学条件を聞いたりしました。
入学は八月でまだずいぶん先です。

そこで大学の英語コースが終わってから一度日本へ帰り、半年近くゆっくりしました。
子供はちょうど日本の一年生だったので少しの間でしたが小学校に行きました。

その頃に福岡で胸の中央の上の方に飾り文字のような刺青をいれました。
この刺青はそのあと数年後に飾り文字ではなく、蝶と花のような大きな飾りに変えたのですが。
これは何の柄なのかよくわかりません。
自由で花が咲いているんだと、刺青を彫ってくれた人が言っていました。
十六歳から仲良しだったのですがこの刺青を彫ってくれて二年くらいして、私のことを気遣う内容や想いとかをメールで長くくれたあと死んでしまったので、結局会ったのはあれが最後でした。


つづく