「れもん42歳厄年」2 鈴木陽一れもん

2022年05月04日

小学生の頃は
比較的、普通の子どもだったかもしれない。
近所の友達と野球やキックベース、相撲をしたり。

相撲?
昭和か!
いや当時、千代の富士から若貴ブームに至る時代とはいえ、どれくらい全国の子ども達が相撲を取っていたかまでは分からない。
しかし少なくとも僕の周りでは結構な人数が『草相撲』に参加していてザックリした四股名(れもんは、鈴の里)と番付表まであった。ぼんやりした記憶なので誰が相撲をやろうと言い出したかは思い出せないが『鈴の里』という名は自分センスな気がするし、番付表もひょっとして僕が勝手に作っていただけの可能性がある。
野球にしても相撲にしても『記録』が好きな子どもだった。もしかすると実際には相撲は少ししかやっておらず、そこから個人的な妄想を拡げて番付を書いて1人遊びしていた恐れすらある。
チャゲアスが流行った時には友達と音楽ユニット『スギ&タヌキ』を結成し、存在しない楽曲の歌詞を妄想で書いていた。れもんにとって詩の原体験は、飛鳥涼だったのかも。「砂時計のくびれた場所」とか刺激を受けた気がする。

野球は継続してやっていたのだが、両投両打で左投げ時はスリークォーター、右投げ時はアンダースローという変則の極みに挑戦しようとしていて
今回、冒頭に「普通の子どもだったかも」などと書いたものの、やはり幼い頃から変なものや珍しさに憧れる癖はあったように思う。
少年野球チームにも参加していたけれどセカンドの控えの控えくらいの存在で背番号は『64』だった。(それだけ野球人口が多かった時代)
六年生になる頃『15』の背番号を貰い、ベンチ入り出来るようになったのに辞めてしまった。本格的にやるのは嫌だったのかな。練習でゴロを捕球する動作を誉められたこと、チーム内のマラソン大会で最下位だった時に『努力賞』トロフィーを貰ったことが印象に残っている。

やはり世代なのでファミコンも、よく遊んだ。うちはツインファミコン(ディスクシステムと一体化したやつ)だったけど、あれを自ら欲しいと言ったんだとしたら、これまた珍しさ憧れか。
ドラクエ2、3、マリオ2、3、キャプテン翼、つっぱり大相撲、さんまの名探偵、がんばれゴエモン、迷宮組曲、夢工場ドキドキパニック...その他たくさんあるけれど野球ゲームだと『ベースボールスター』
友達の家ではファミスタや燃えプロ、でも我が家は何故か究極ハリキリスタジアムシリーズをずっと買っていて、そして最終的に一番ハマったのはベースボールスターなんだよな。実在の野球チームではなく架空のメジャーリーグぽい世界観の中で、選手それぞれに年俸みたいな値段が付いていて金額分を支払うと能力アップできるシステムが画期的だった。

小学3年生の時に、両親が離婚。
僕は父に、妹は母に付いていき、それぞれの場所での生活が始まった。人生の中で大きな出来事、次回はそれについて書いていきます。






鈴木陽一れもん