「わが地名論 第6回 三条を出て三条に至る」平居謙

2025年06月04日

「わが地名論」連載にあたって
詩の中に地名を書くこと。その意味を探ること。これは僕自身の詩集に関わりながら展開する「わが地名論」。この連載を通して〈地名とは何か〉〈詩とは何か〉を考えてゆく。



前回の「連載5」において僕は〈詩においては、架空の地名が、現実の地名よりも上位に来ることがある。〉と書きまし。それは〈エデンの園〉に関って、僕の世界観が架空の地名の方により重点が掛かっていることを書いたのでした。しかし、『時間の蜘蛛』は、次の「尾骶骨」という作品で終わっています。この作品は1983年、著者22歳の時に掛かれた作品で、詩集には84年や85年に書かれた作品も多くあります。にもかかわらずこの作品で閉じられている。さまざまな意味合いがあったのでしょうけれど、〈地名〉に関って考察すればどうなるのでしょうか。



ここに「尾骶骨」全篇をあげあます。詩集では筆ペンで書かれた文字がそのまま使われていたのですが、ここではゴシックの太字で掲載しています。


      尾
  三条の大橋を渡って左に曲がった。
 坂を
少しく下ると河原に出る。工事中の看板の他はどこもあの頃とかわったところはない。お前とはときどき衣服がふれあう
ばかりで、だが十分こころは今話してもいいなと思わせる程通じているように思われる。夏に花火をしようとここに集まったことがあったな。やったのか、やらなかったのかも忘れたけれどあの頃からお前のことを気にかけ出していたのだ。(今お前の手を思い切って握らないのは、お前のからだがお前のこころやことばに似合わずかたくなっていたことに気づいているからだ。そしてそれを気づかせたのは、映画の帰りの偶然-全くの偶然-だった。)
 でこぼこで歩きにくいわとお前は言う。何と答えればこのMOODにぴったりとゆくのか考えることもしないままに、あなぁと答えて、それが妙に橋下のうすぐらさに響いてしまって恥かしく思う。ここではもっと恥かしい目にあわせたこともあった。どこにゆくかははじめから決っているのだのに、今決めたふりをして歩きだすのは、とても勇気がいったし、だけれどもなんという用事もなしにいっしょにすわってられるだけの人間でおたがいがあることに気がつくと、もうそんな技巧は実際には全くどうでもいいといったわけではないのに、まるでそのように思われてつい安心したまま、先ほどお前に言われてはじめて気づいた歩きにくさというのも、案外このことばさえなければずうっと楽々と歩けたかもしれぬ。してみれば前にあのこに気持ちをうちあけるようなそうでないようなそぶりをしたのも罪ぶかいことだったのではなかろうかと考えるでもなし考えないでもなしに歩いていると、お前の顔がこま落しの映画のようにうつっていった瞬間に尻もちをついた。当分この話がつづきそうだと思いながら御池二条とあるいていった。

 だいたい文学なんてのはうすのろのやることだろうなんてもし言ったら、お前は変な目で見るに決っている。第一にそれが文学ということばとさえ関係のない口から発せられるからだろうし、第一そのようなnihilな雰囲気をただよわすだけの霊体はついていないと思える。そして何よりもお前にいっしょにわかってほしいのは、そんなことでは何もないのだから。茶は一期一会だろ、だから嫌なんだ。お前に言った。茶は一期一会だろ、いいんだけど、いいんだろうとおもうのだけれど心の中で否定するものがある。それは心の弱さなのかもしれないし、そうでもないかもしれない。そしてね、伝統にひたり切れないのもそのことにやっぱりかかわっている。というより、全く同じ原因からなんだ。なぜこれを、あの娘に話ができなかったか、というのも同じ原因。これをお前に話さないのも同じ原因からという含みを込めているのに、お前はさっぱり気づかずに、疑うような目で笑っているだけなのだ。このまま左側を歩いていては、大好きな方向へはとうてい行けぬと気づいたが、川を渡るは酔った時だけで十分。橋上をお前とわたるのは、この上なくはれんちな感じがするように思えたのであとは何てことない散歩のまま「時がすい込まれるように手首の中にとけてゆく」のさえ感じるも感じないもない時計は部屋の机のひき出しの中だ。試験の時もひとの時計をたよりに暮したことを思い出すとずいぶんのん気なものだと人のことのように感心してしまうが、お前の表情をみると少々疲れたような顔をしているから、おおかた午前中のお茶会とはじめてやったという撞球なんかが意外と残っているぐらいなもんなんだろうと思う。そうだな、あんまり疲れてもと思ってもどることにすると、案外まじめな表情にお前がもどっている。

 前にあの娘にいろんな人好きにならへんかと聞いたことがあったが、その時、あの娘は、"ううん、好きな人どんどんふていくの"と答えたのだった。いいことばだと思って覚えておいたが、それがさみしさの根本原則であることもすっかり忘れていた。お前にもいつか話さねばならぬだろう。

 いつの間にか雪がちらついている。あと半丁、橋をひとつくぐれば三条駅である。

('83)

                 完




最後の〈完〉は、詩集全ての終了の意味でもあったのでしょう。妙に大きな文字で書かれています。できるだけ難解な感じで読みにくく書いたのは、当時大学の授業で担当した横光利一『機械』を意識したのかもしれません。主語を排して、全体の流れを意識的に冗長にしたのです。しかし横光の小説には及ぶべくもないシンプルなものに終わっています。



このタイトルになった〈尾骶骨〉は、作中で語り手が尻餅を搗き、したたか尾骶骨を打ち付けるという件から取っているのですが、実体験としてその時にあったわけではありません。お茶会、三条(の鴨川でしょう)、その河原を歩いてゆくというのも、ばらばらの事実を寄せ集め再構成したにすぎません。事実ではなく、空想の物語なのです。



しかし、第1詩集(当時としては紛れもなく第一詩集であったが、現在の僕の感覚から言えば、それは習作期の〈第0詩集〉にほかならなりません)の最後を飾る作品の中に、明確な地名が現れていて、しかもそれが三条大橋である、三条大橋からでて三条大橋に戻る物語だ、というところに意味があるような気がするのです。



この連載の特徴なのですが、書いてゆく中で初めて思い至るということが多くあります。僕の親は少し変わり者だったようで、京都の伏見区に住んでいながら、子供を銀閣寺の近くにある幼稚園に通わせていました。もちろん一人でゆけるはずはなく、母親に連れられて電車、バスを乗り継いでゆくのですが、随分と遠い通い路でした。藤森から三条にまで来て、彦九郎像に挨拶しながら、5番のバスに乗って幼児生活団と呼ばれる鹿ケ谷にある幼稚園に向かうのですが、それはまさに三条大橋から出て三条大橋へと戻る道筋にほかならなりませんでした。バスは河原を通れないので東山の車道を進むのですが、起点と帰着点は、この「尾骶骨」と同じなのでした。



このところ僕自身の作品を論じてくださっている折口立仁によると、この作品「尾骶骨」の系譜につながるラヴソングの系譜がその後の僕の詩集の中には必ず含まれているそうなのです。してみると、このラヴソングも、幼い日の通い路をなぞりながらそこから離陸してゆくための急ぎ足の散策にほかならなかったのかもしれないという気がしないでもありません。

    *

ここまで6回に渡り第0詩集『時間の蜘蛛』における地名を垣間見てきました。地名と詩との決定的な原理が発見できたとは思われませんが、少なくとも僕にとっての地名の役割くらいは見えてきた気がします。今後は、少し端折りながら、ひと月に一冊の詩集の、〈地名〉から見た特徴について確認してゆこうと思い。もうしばらく、平居謙の自註にお付き合いくださいませ。





平居謙