「アリの話」01 大塚ヒロユキ

2024年12月09日

風が吹きすさむ峡谷。
壊れかけた大きな吊橋、所々踏み板が抜け落ちている。そこはかつて名声を受けた人々の足跡が化石として発見されている名所でもある。
一匹のアリが吊橋を渡りはじめる。触角で足場を確認しながら、ほつれかかったロープの上を歩きだす。
数多の者たちがこの吊橋に魅せられた。アリはこの橋を渡ったことがあるという男のことを思い出す。
「向こう岸か、懐かしいな」その男はアリの触角を見つめながら言った。
「お前の気持ちはよく分かる。でも止めたほうがいい」
アリに朝食を振る舞った後、男はふらつきりながら森の奥に消えていった。
アリは前方を見つめ、ロープの上を歩きつづける。まだ何も起こっていないということに対する不安が、アリの小さな胃袋を締め付ける。
「鏡をよく見てみろ!」自分はウグイスだと言い張るカワガラスの雛の声が谷間にこだまする。
みんな、世界のありとあらゆるアリは、吊橋なんかに興味を持たないはずだから、という理由から何が生まれるんだ。
「きっとそうだ」
そこに踏みつけられていたアリの様に小さな足跡を見てアリは思った。
「きっとうそだ」
勇敢に立ち向かうことへの羞恥心が眠りへと誘うのだ。
ロープの繊維がほつれ、数本の糸が絡み合っているだけの最も危険な地帯でこそ、アリは水を得る。そこはアリにとって最も安全な場所。
不意にアリは睡魔に襲われる。身体の一部分、ほんのひと握りの部分が大きく足を引っ張るのだ。
アリは身体が思うように動かないことに気づく。胃袋が重く、耳鳴りがする。
「おれの手は汚れているけれど、これが現実なんだ」今朝、橋のふもとで出会った髭づらの男が言う。
「おれはお前が羨ましい。足が六本もある上に、立派な触角まで生やしている。それにその複眼だ。複眼てやつはつまらないものまで面白く見せてしまう。一度でいいからお前の目に映っているおれの姿を見てみたいもんだ」

峡谷の岩肌を登りはじめた時、アリは一日かけてその橋が橋であることに気がついた。
そして橋があるということは、その先に必ず、向こう岸があるということにも。




大塚ヒロユキ