「アリの話」05 大塚ヒロユキ

2025年01月12日


頬にうける心地よい風が、アリの思い出を呼び覚ます。懐かしく優しい記憶への旅。あの頃の時間の流れと、今の時間の流れが、同一線上にあるとは思えない。

向日葵畑で過ごした幼き日々。蜜蜂たちの秘密の会話に耳を澄ませ、空に浮かぶ雲が大きな綿菓子だという情報を手に入れる。
アリは向日葵の花の上に這いあがり、助走をつけて空に舞い上がる。
砂まみれのほてった身体を清流で癒していると、水辺でちょっとしたパーティーが行われていた。シックないでたちのアリは、空を飛びかう紋白蝶に一目惚れをしてしまう。カナブンが光る背羽で彼女にアピールをする。ハナムグリも控えめに背中の斑点を揺らしている。内気で臆病なアリは、彼女を誘うこともできない。
アリは独り下流の方へと歩きだす。ひな菊の花びらに乗り、川下りをはじめる。小さな淵で遊んでいたアリは、いつの間にか本流へと流されてしまう。アリは花びらの上でうろたえる。花びらは急流に乗り、くるくると回転し、物凄い勢いで突き進んでいく。
突如、アリの乗っていた花びらが大きな水音とともに空中に浮き上がった。
毛むくじゃらの怪物が水の中から現われたのだ。アリの乗った花びらは怪物の鼻の上に乗せられ、二つの青い目に睨みつけられた。
アリは死を予感した。
「死は突然やってくるもんなんだ」と誰かが言っていた。
銀色の毛に覆われた青い目の怪物は、鋭い日差しに小さく閉じられた瞳孔でアリを睨み、甲高い声を発した。
「安心シナ、モウ大丈夫ダ」奇怪な声が足元から響いてくる。
「お前は誰だ?」 とアリは言った。
「見テノトオリ、タダノ犬ダヨ」
「犬?」なんで犬が水の中にいるんだ。
「川ニ潜ッテ鱒ヲ見テタンダヨ」鼻をわずかに震わせながら犬は言った。「ソコニ花ビラニ乗ッタ君ガ流レテ来タンダ」
アリは姿勢を低くしてバランスをとる。
「モシ花ビラカラ落チテタラ…」と犬は言った。「鱒ニ食ベラレテタヨ」
「おかげで助かったよ」とアリは言った。「でも川に潜って鱒を見ている犬なんて聞いたこともない。それにその声はどうしたんだい?」
「声? アァ、君ガ鼻カラ落チナイヨウニ、腹話術ダヨ」
犬は首をそっと伸ばして水しぶきを避ける。
「オレノ名前ハ、アルベルト、君ハ?」
アリは名前を持っていなかった。黙り込んでいるアリを見て犬は言った。
「君ハ、エイリアス……ダロ?」
アリは首をくるりと回し、あたりを見渡した。この先には滝がある。こんな危険な所で犬が川に潜って遊んでいるはずがない。
アリは身体を仰け反るような体勢で、すぐ目の前にある犬の顔を見た。よく見ると、アルベルトはとても端正な顔立ちをしていた。
「君はハスキー犬だね」とアリは言った。「君みたいな素敵な犬がうらやましいな」
アルベルトは岸に向かって泳ぎつづけた。鼻に乗った花びらの上に立っているアリは、大きな戦艦の船長になったような気分だった。








大塚ヒロユキ