「サイファー」ヒラノ
何から話してよいのやら…
馬野ミキという詩人がいる。
あれは高円寺だったのだろうか?
彼の詩の朗読を聴いていた時、
「カサイは、生活保護費が下がったと嘆き、俺に〜」
カサイ?ふいに鼻をつく臭い
僕は驚き、彼の朗読を遮って質問した。
「カサイってあのサックス吹いてたカサイさん?」
「そうだよ」
どういうことなんだ?
始めましょう、少々長くなりますがお付き合い下さい。
平成の時代の当時、僕らは週末といえば渋谷にいて「マイク握るぜ?」「マイクよこせ!」「マイク貸せよ!」とういうやり取りしていた。あれから、遭難した奴もいれば先輩方はジャンベやカホンを叩き、僕はと言えばこうして鉛筆にしがみついている。
渋谷東急本店の前にあるサンクス前で。そこの毎度のメンツに橋本くん、がいた。橋本くんはピアニストからhiphopのDJに転身した僕らの中では変わり種だった。
坊主で髭面の橋本くんは普段、「ふんぅっ、ふんぅっ!」とヒゲを撫でながら他人に参槌しか打たない寡黙な人間だったが、そんな橋本くんもサンクスの前ではたまにラップを披露していた。だが、基本は静かな人だった。しかしメールとなると途端に饒舌となり、そして微妙にモテる。着いたあだ名が舐めダルマ、もう一つがエロダルマ、誰も異論を唱えなかった。テル太郎も含め、僕たちは歌舞伎町にファンクポートがあった時代からの知人以上だが友人とも呼びづらく、でも週末の相棒であり、ただの飲み仲間、と括るには物足りない連中であった。
後に聞けば橋本君は四谷の歯医者の御曹司だった。その実家にはグランドピアノがあったそうだ。
カサイさんは日中、代々木公園から歩いて四谷まで行き、橋本君の実家近くのコンセントで携帯を充電していた。ホームレスが握りしめる携帯の電源の充電、それは橋本家の電気代の中に含まれていたのだった。
その橋本君が所属していたジャズバンドのサックスがカサイさんであり、若いホームレスであった。カサイさんは会った当初からホームレスだと紹介され、本当に臭く、臭く、ただの風呂嫌いというレベルでは無かった。業務用の臭さだった。
一緒にタクシーに乗った時、窓全開で空ゲロあげながら渋谷から中目黒に行った事がある。嗅覚というのは五感で一番強く記憶に残るのだそうだ。ほぼ毎週つるんでいた。そして僕らは金を払わずにクラブで遊んでいた。
若い僕はホームレスということが冗談に聴こえ、臭いカサイさんを見下していた。ある夏の代々木公園、毛布を被ったカサイさんが芝生から僕の姿を確認すると「タバコちょうだい?」と挨拶より先にそれを言い放ち、右手を差し出しながら寄って来る姿を見て、初めてカサイさんがホームレスだと認識した。その登場に僕の彼女も驚いていた。僕の見下しが確固たるものになった。本当にホームレスだった、若いコジキだ。そしてその日は暑く、その日もやはり臭かった。8月の炎天下の代々木公園の芝生に毛布、今思えばあの毛布はカサイさんの何かを守っていたのかもしれない。
カサイさんは俺の先輩である良太くんの中目黒の実家で「へぇ〜、いい家じゃん!」と貰ったタバコの灰を躊躇なく床に落とした。
「カサイさん、ここ公園じゃない!」
カサイさんが「良太へ!おしっこをこぼすんじゃない!家族より」という二階の張り紙をされたトイレに消えた時、僕は内緒でカサイさんのリュックを開けてみた。どこかの軍隊の放出品であろうカーキ色のカサイさんのリュックの中にはロウソクを囲う行灯だけが入っていた。あの膨らみは、ほぼ空であった。
カサイさんはどこぞの小学校からウサギを盗んで来た。事実、ウサギを愛でるカサイさんの代々木公園での目撃例は僕らの中で枚挙にいとわなかった。ウサギをちゃんと愛するというのがどういうことか僕にはよくわからないが、ウサギとカサイさんは相思相愛的な関係であったらしい。知っている限り、ウサギが大暴れしていた話は聞いていない。
ある日、ある日を境にカサイさんは僕らの前から姿を消した。代々木公園でのウサギの目撃例もそれ以来無くなった。
それからしばらくして、冬のサンクス前、皆がダウンジャケットを着込み、ティンバーランドのブーツで集まり、缶酎ハイを片手にフリースタイルをしけ込んでいると、「チン!チーン!」と自転車のベルが鳴った。そこには自転車に乗ったカサイさんがいた。
「あ?カサイさんじゃん?!」新しそうな服を着て、茶色のママチャリにまたがる臭くないカサイさん、俺は臭いで認識していたのでしばらく理解出来なかった。臭くないカサイさんはカサイさんでは無い。そこにいたのは髭を剃った臭くない、新品の葛西さんだった。
「どうしてたんですか?死んだと思ってた…」
「捕まっちゃってさ…」
「ウサギはどうしたの?」
「離れ離れになった」
「本当は食べたの?」
「食べてないよ」
「食べたでしょ?」
「ウサギ食べて無い!」
ウサギ、名前つけてなかったんだ…
捕まったとはしかしなんだろう?ホームレスというだけで逮捕されるのか?そんなバカな、あるわけない。しかし本人は捕まったと言っている。事実、半年近く渋谷にも代々木公園にもいなかった。
葛西さんが言うには週に6千円のお小遣いがでて、タバコを自分の金で払えると赤いパッケージのマールボロを吸い始めた。自転車は施設のものだという。
どうやらこういう事らしい。月に13万円の生活保護費にさらに精神異常による上乗せ保護費、今で言う貧困ビジネスの東京でのはしりというのは生活困窮者、つまりホームレスを捕まえ、ぎゅうぎゅう詰めにして、トヨタのハイエースで誘拐し、特定の住所に登録させ、葛西さんの場合は渋谷区からの公金を何らかの団体が吸い取っていた、という事であった。
葛西さんはサックスを吹いていた。そのサックスが壊れてしまい、修理費が10万円で、その金額に挫け、気がついたらサックスも、
家も無くなった。
無くなった。プリペイドの携帯だけ握りしめて。
そして東京を漂った。代々木公園という場所に居座った。さらに居直った。僕はそういう時の葛西さんに会った。彼がサックスをどんな音色を奏でていたのか、今の僕は聴いてみたいし、きっとあなただって聴いてみたいはずだと思う。あの野郎の本気ってのを、聴いてみたいと思いませんか?
「サックス?わかんない、どっかいった、っていうか、修理で預けたまんま」
達観した仏陀のような発言、本体不在のマウスピースからこぼれ出るタバコの煙。PINロックを解除出来ないアイフォン、充電器を無くしたエアポッド。現実とあんまりリンクしないファンタジー。笑っちゃいけない局面で笑ってもいいポジションとドキュメント。さながら福島第一原発の汚染処理作業員内での同性愛者間のコミュニケーション。血統証付きのワンコを多頭飼いするママのアナウンス、「殺処分反対!誰か保健所のこの子を助けてあげて下さい!」
ママ、聞いていい?ママの家では雑種のワンコは家族に入れてもらえないんだね?
マウストゥーマウス、あなたの耳にサックスのマウスピースを差し込み、ありったけの肺活量を使って、吸う時に「ウサギ」、吐く時は力強く「どこ?」と、これを繰り返す。安心しきった灰色の大きな耳をした毛玉が腕の中でピクピクしている。
どうする?今日、お鍋にする?
まさか葛西さんがミキ君と友達だったなんて。まだあるし、お鍋食べて、お風呂入って温まって、ゆっくり寝よっか?
芝生、毛布、ウサギ、代々木公園B地区、即興のリリック
僕と詞と鉛筆に馬野ミキ、そこに無いサックス
不思議が不思議を呼ぶ不思議、無意識
無意識と無意識が繋がり不思議な事に縁となる。点と点を繋いで線となり、さらに繋いで行くと、そことそこの接点に当たり、円となる。
その輪っかの中で人と言葉が行き交う社会、僕はまだその不思議の根っこを解明出来ていない。
待てよ?不思議って、不思議の輪郭って円形なのか?